🐗 Wild Boar ⅠA (ワイルド・ボア 初期型 Aタイプ) 

※・・・F3A型スロープ・スタント・グライダー1号機です。
 
● ワイルドボア・シリーズは本機から始まりました。この機体の誕生には、北九州市・小倉区に存在した模型店のご主人の要望が有ったからです・・・。ただ・・・平成16年3月から機体の設計を始めたのですが、この時点で・・・既に模型店のご主人は他界されていました。

● 昭和61年2月・・・私は大阪に就職先を決めました。就職先は(MK)加藤無線です。朝から晩までキットを製造する仕事でした。私自身は、グライダーを作りたかったのですが・・・、MKはF3Aのメーカーです・・・、グライダーは製造していませんでした。時々・・・小倉の模型店のご主人から電話がありました。近況報告やら不満爆発で泣き言やら・・・。ご主人は全て聞いてくれましたし、アドバイスもくれました・・・。

● 私の周りでグライダーをやってるモデラーはいませんでしたし、会社の同僚にも居ませんでした・・・。私は気分だけでもグライダーがやりたくて当時の(JRGA)に入会し、毎月の会報を楽しく読んでいました。一年ほど経ったある日・・・模型店のご主人から連絡があり、面白い提案をしました。内容は・・・多分・・・無理だろうなあ・・・ほぼ実現不可能な要望でした。

● 翌日・・・開発室長にこの模型店からの要望を話してみました。すると室長曰く・・・「俺も・・・昔・・・提案したけどなあ。一発で却下されたよ。たった一言・・・アカン!ってなあ。社長にその話しは・・・せん方がええで!。気持ちは解るけど・・・。」・・・後日・・・模型店のご主人に連絡して、難しい旨を話しました。その時にご主人が言った言葉・・・今もはっきり覚えています。

● 「いつか・・・お前が独立したら・・・作ってくれるか?。ワシがどんどん売ってやるから・・・。」・・・独立するなんて考えてもいませんでした。しかし・・・未来を見通した様に語ったご主人の言葉・・・現在・・・カタチになりました。ご主人は何を要望したのでしょうか。
当時の平尾台はラジコンブームで飽和状態でした。大会をやればパッシングレースばかり・・・。速く飛ばす事に重点を置いた機体ばかりが売れた時代に成りつつありました。
 

● ところがモデラーはスピードばかり追い求めるマニアばかりではありませんでした。スロープスタント競技・・・当時のF3B競技にはタスクC(曲技)も盛り込まれていました。往復のパッシング中に、宙返りやロール等の演技を盛り込みスピードを競うレースでした。この競技は博多区・雁ノ巣・奈多海岸の大会では行われていたカテゴリーです。

● ご主人が要望した機体とは・・・、F3A機のスロープスタント・バージョン機でした。昭和の模型店のご主人達って・・・ある意味、ラジコン模型の面白い競技の発案者でもあったのです。日本中で面白い競技会が目白押しだったのが昭和の時代です。アンテナを縮めたプロポを持って、林の中に設営された山あり谷ありのコースを、バギーと共にドライバーも走り回るクロスカントリー競技やら、浅い人工池に水泳競技で使うコースを区切る浮きを使って、複雑なコースを設定しボートによるタイムレースをやったり・・・、スクリュー船もプロップボートも同じコースでレースです。そういうオープン的な面白いレースもありました。

● 当然なんですがスロープグライダーにも同じ事が言えるんですよ。何時の頃からなのか・・・スロープグライダーはスピードレース一本に成っちゃいましたが・・・。大観峰でもこのスピードレースの流れが主流になり・・・、ビュンビュン族が間髪入れずに飛び回り・・・、ゆっくりのんびり派は隅に追いやられる現象が起きました・・・。

● そこで開拓されたのが俵山のスロープエリアです。小高い丘にも似た形状なので、日本のワッサークッぺと言われていました。ビュンビュン族には物足りませんが、スケールグライダーにはぴったりのサイトです。今後も事故無く存続する事を願います。このF3A型スロープ機は、グロー60クラス程のサイズながら・・・全備重量は、約1200g位しかありません。もっと軽量にも出来る構造なので、重心位置のバラスト調整で中風から強風まで飛行できます。よって、強いGの掛かる派手な曲技をしなくても、普通にパッシングする性能も有しています。繰り返して言いますが、ビュンビュン族には物足りない部類の飛行機です。