ブログ

☆彡ちょっと前の長崎新聞からの切り抜き「現代民話・すこしむかしの話 五平太さわぎ (口之津町)」

整理をしてたら数年前の長崎新聞の切り抜き「現代民話・すこしむかしの話
五平太さわぎ (口之津町)」が出てきました、ブログにアップさせていただきます。明治のころ、口之津港が石炭の積み出しでにぎわっていたころ、三池炭鉱が発展していく陰で労働者は大変だった話、当時の資料は口之津港ターミナルビス2階の口之津歴史資料館にも展示してあります、新しい資料館は2020年4月にオープンします、お楽しみに!

現代民話・すこしむかしの話
五平太さわぎ (口之津町)

島原半島のいちばん南に、口之津という港町がある。ずっと昔には南蛮船が出入りしておったそうだが、その後まったくさびれてしもうとった。

ところが、明治にはいると、三池(福岡県)の五平太の積み出し港となって、ふたたびにぎわいはじめた。五平太というのは、石炭のことじゃ。なんでもむかし、五平太という人が、はじめて石炭を掘り出したからじゃと言われとる。

当時、三池にはまだ港がなかったので、三池炭鉱で掘り出した石炭を団平船という、幅のひろか船で口之津まで運んできて、それを本船に積み込んでおった。その積み込みがまったく競争で、そりゃもう、すさまじいもんじゃったとげな。

本船がやってくると、まずいちばん積み込みやすいところに団平船を横付けせにゃならん。その位置によって、作業の進み具合がちごうてくる。積み込んだ石炭の量で、もらう金がちごうてくるのでは、はよう場所をとるのも競争だったし、積み込みも競争だった。ワラであんだ「かがり」という入れもんに入れて、「ヤンチョーイ、ヤンチョーイ」という掛け声と一緒に手渡しで積み込んでおった。

一番、はよう着いて、仕事ば始めた組みには、手ぬぐいとか、ばっちょう笠(番匠笠、竹の皮で作った大きな笠の事)なんかの商品が出たそうじゃが、考えてみりゃあ、じょうずに働かされよったとじゃろな。

人夫たちは、毎日ふとか弁当箱にサツマイモば入れて、それば団平船の上でガツガツ食うとったとげな。
弁当箱は一日中石炭のそばに置いとったもんで、時には石炭の粉が入り込み、ガリガリしたそうじゃが、それでもそん時が、一日のうちで一番よか時間じゃったそうじゃ。

めしが終わると、休みもなく、すぐまた仕事じゃ。仕事のきつかわりには、ちっとしか金はくれん。みんなの不満が少しずつ高まってきたころ、誰かが、「請負が、あいだで取り過ぎよるとげなばい」と言い出した。

「まさか、そがんことは無かろう」
「いやあ、会社のもんや、請負の様子ば見てみろ。豪勢なもんばい。あいだで、どうにかしとるに違いなか」
「そうかもしれん。これじゃ、あんまりばい」と、人夫たちは騒ぎ始め、とうとう、
「そんなら、みんなで仕事ば休もうで。ちっとはびっくりして金ば上げてくれるかもしれん」
ということになって、次の日から人夫たちは、仕事に出らんごとしたとげな。今でいうストライキじゃ。

ところが、二日たっても三日たっても、会社のもんや請負はなんとも言うてこんし、別に驚いたそぶりも見せん。だんだん人夫たちの方が不安になってきた。

「おい、もしおれたちがクビになったら、おまんまの食い上げばい」
「こがん土地の狭かところじゃ百姓も出来んし、なにも金もうけのあての無かとぞ」
「そろそろ、あやまりにいったが良かとじゃなかろうか」
「いや、もうちっと辛抱してみようで」
「うんにゃ。もうこれ以上はダメばい」
人夫たちは、どうにも心配でたまらず、とうとう代表者を立ててあやあまりに行くことにした。
そして、丁寧にも、
「我々の考え違いで、仕事に出ませんで申し訳ないことをしました。今後一切、こんなことは致しません。これまでのことはお許しください。今後もし、そちらに背くような事がありましたら、どんな処分をされても文句は言いません」という、詫び状まで書いていったとげな。いじらしか話たい。

請負たちは、ちっとは驚いたかもしれんけど、会社の方はなれたもんよ。人夫たちにとっちゃ、百姓するにも土地は無かし、なにも金の入るあては無かとじゃけんな。三日もすれば、向こうから、頭を下げてくるぐらいのことは、ちゃんと見抜いとったはずじゃ。

その後、十年以上も経って人夫たちは、またストライキをしようとした事もあったが、どうしてもうまくいかんじゃった。会社側は、仕事が増えて、人夫が足らんようになると、台風で作物が全滅し、暮らしに困っとった南方の与論島の人たちば連れてきた。
そして口之津のもんが穏やかでない動きをすると

「与論島のもんば見てみろ。お前たちよりまだ安か金で、文句ひとつ言わんで、働きよるじゃろが」と説き伏せ、
「いやなら与論からもっとよんでくるけん、いつでもやめてもろうてよかとぞ」とおどかす始末じゃ。

結局、何にも出来んで、泣き寝入りするしか無かったとじゃな。

あげくの果てに、三池に港が出来ると、与論の人たちは、揃って三池に移り住んでしもうた。

そんな訳で、口之津は日の消えたごとさびれてしもうた
明治の末頃の話じゃが、なんと言っても、持ってるもんにはかなわんとじゃな。

<再話:二羽史裕> 声に出して読みたい「長崎県の民話」:長崎新聞
現在、口之津町には明治時代の税関の建物をそのまま使用した歴史民俗資料館があります、中には当時の石炭積み込みの様子が再現してあります。三井炭鉱が明治、大正、昭和と大発展していく影に、労働者たちのたいへんな犠牲があったということがよく解ります。

  2020/04/02   ebisuclub

Send comments

 
※ Email will not be published
Loading...
 Please enter the letters of the image