冷や汁めし

冷や汁めし

今日という日が昨日となり、今年が去年となる、こうした時の流れに竿さして、いつの問にやら九十歳に手の届くじいさんになりました。

いろりを囲んだおどんがこまんかとき
いろりを囲んだおどんがこまんかとき

「もう、後は知れたもん」と、思うと、過ぎた昔のキリシタンに関することや、南蛮船の来航、あるいは島原の乱、等々の記録は多くの研究者の著書に残されていますが、口之津に往む、私達の幼少時代(おどんがこまんかとき)の社会の変遷、これに伴う日常生活の体験、また、見聞きしたことをそのまま記述して、後に伝承することも大切なことです。

それは、私達古老のつとめであり、また、ふるさとの歴史のひとこまの記録もそれなりに意義のあることと考え、本号からしばらく掲載することにしました。

むずかしい話はさておき、日本は日清、日露、それにつぐ第一次世界大戦に勝利はしたものの疲れ切って、貧困生活を強いられる大正時代を迎えました。

生活の基礎である食生活を振り返りますと、明治の最も賑わった時代は人口一万二千人を抱え、農耕地の少ない口之津の食糧事情は段々と悪くなってゆきました。主食は麦と甘藷で、米は生産者でも上米は売り屑米を食う状態となり、一般の家庭で米を食う家庭は限られた一部に過ぎませんでした。

当時は輸入米があり、これを唐米(とうまい)といって細長い粘り気のない臭い米で、うまくないこと天下一品でした。でも内地米一升十五銭の時、唐米は六銭だったというので、まずくてもこの米を食うより仕方がなかったのです。

また、保存食として貯蔵するのは、米麦は俵入りのままか当時流行した円筒型のトタンで作ったタンクに貯蔵していました。

甘藷は「イモガマ」といって、居宅の床下を掘って地下貯蔵していました。また、芋を切って茄でこれを日乾して、「イデコッパ」とし、これに例の唐木を入れて炊いたものを「ゴッパメシ」と云ってこれも主食でした。

麦飯は、丸麦と「ジャギ麦(機械で押し潰した麦)」の二種類で、丸麦は麦だけ一度炊いてから米を入れて炊く二度炊き、シャギ麦は始めから米と一緒に炊く一度炊きということでした。

こうして出来た麦飯には「冷や汁」がきまりで、生味噌にゴマやショウガ、焼き魚を摺り込んで水を入れたもので、独特の昧がありました。米の少ない麦飯でもこれをかけて食うと冷や汁の勢いで何杯もおかわりしたもんでした。

切芋を日乾して粉にし、これで芋だご、だご汁、六兵衛などがありましたが、これは当時なりの知恵が作りだした補助食でした。

この頃は今のようにカロリーとかビタミンとか云う時代でなく、要するに服が太ればそれでよかったのですが、すべてが現在と比べると比較にならぬほど栄養価の乏しい粗食で、その上に、主食が麦と芋ときては、最高の快便食であったのでしょうか、腹の減るのが妙に早やかったものでした。このほか、味噌も醤油もほとんど自家製で、木陰で原料の麦を炒る香ばしい香りのする夕暮れ時もありました。

口之津が黄金時代の明治末期から大正時代にかけて、加津佐方面から鰯をザルに入れ、短か襦袢に腰巻き姿で中年女性が「イワシャヨガンヒョカーイ」の売り声で、先を競って小走りするさまが街の忙しさを掻き立てていました。

それに恰幅のよい男性が箱型の容器を荷負い、「牛ハヨーガスカ牛肉ハ」とどすのきいた売り声で売り歩く姿もありました。この頃は、牛肉を買う人は限られた家しかありませんでした。

得意先に立ち寄ったこの人は、箱の中から棒状の包丁研ぎを取り出して、スッスッと包丁をこすって肉を切るのですが、その仕草は実に見事なものでした。貧乏育ちの私には牛肉なんて縁遠いもので、ただ、これを見るだけでした。

近所で焚く牛肉のにおいがすると、母はすぐ戸を閉めていました。明治生まれの母は本当にこのにおいが嫌だったのか、欲しがる子供への心遣いだったのか、今は知るすべもありません。

最も腹の減る子供の頃は、学校から帰るとすぐ友達と集まって近くの山へ登りました。それは今頃の散歩やダイエットというような上品なものでなく、食い物漁りのためでした。

さしびさんごをよく取って食いました。さしびさんご糞一升と云われるもので、腹の中まで青くなり便通は確かなものでした。このほか、山桃、野いちご、桑の実等々。子供にとっては季節季節の山の幸がおどんが空腹を支えてくれたのです。