祇園さまのお守りと氷屋さん

祇園さまのお守りと氷屋さん

学校帰りの私達の幼少時代(おどんがこまんかとき)は、かならず四、五人づれでよく道草をくったもんでした。

真っ赤に焼けた鉄が向う槌する弟子の槌と、これに応える師匠の金槌の意気の合った槌音が、いつの問にか鎌が出来たり鍬になったりするのが面白くて、鍛冶屋さんにはかならず寄りました。

せっかく焼けた鉄をなぜ水につけて冷やすのか、これが不思議でならなかったので、師匠のおじさんに聞いたら、「子供や知らんでんヨカ」とどなられましたが、なぜか鍛冶屋さんは好きでした。

街で見る桶の輪替え、コーモリ傘の修繕、下駄の歯替え  おどんが達草くうには、十分なものばかりでした。

夏になると、海に近い子供達はすぐ、ねこ泳ぎを覚え、小学生になるとかなりの距離を泳ぐようになり、上級生になると、中橋(港町)から税関(資料館)まで泳ぐ子供が多かったようです。

それが上達すると、貝瀬水門(花火打ち上げ場)から昔の役場下(ハ坂町)まで、それ以上になると、焚場の宮崎旅館(現、ジャンボ)前から港の真ん中を税関沖にあった四の浮標(ブイ)まで泳ぎました。こうなるともう、達人の域になっていました。

こんな時は必ず、祇園様(ハ雲神社)のお守りを首にかけていました。このお守りは祇園様からうけて、これを小さく巻き、小竹に入れ紐を通して、両端をローソクのロー(シュレン)を流し込んで完全に肪水していました。「これを首に下げておけば、「川上から港に住んどるガーッパ(河童)に、ジゴ(尻)ばとられん」と言って聞かせた古老の言がよく徹底していて、みんな忠実にお守りを下げていました。

このお守りで思い出すのが、祇園様の夏祭りです。照りつけた夏の太陽が沈むと、祇園様にも夜が来て、献燈、青年中と書かれたそれはそれは大きな燈龍に灯が点いて、道端に並ぶ出店にガス灯がつくと三々五々集まる人達で大賑わいでした。

人それぞれの願いをこめて鳴らす神鈴にまじって、境内に陣取り、波模様に氷と書いた提灯をつけ、長い木椅子を二~三脚並べた氷屋さんの甲高い、「コーリ、コーリ」と呼ぶ声は一入印象深いものでした。

この声に誘われたのか、いつとはなしに長椅子にかけて待っていると、脚のある平ったいガラスザラに水を山盛りにして、気味の悪い程に真っ赤な蜜をかけ、加勢人らしい婆さんが節くれたった手で何の愛想もなくポイと置きました。

食ってみると、氷だから冷たくはありましたが赤い蜜の甘味もなく、何ばいもかけていたようだった砂糖の甘さはどこへやら……。全く甘さを感じませんでした。妙に考え氷屋さんの手もとを見に行きましたら、何ばいもかけている砂糖は匙を裏返していたのでした。もう、この氷屋さんも早く故人になってしまいましたが、恐らくあの世では地獄に行き鬼から棒で打たれ、「懲り懲り(こりこり)」と云っているかも知れません、か細い声で・・・。

山の少ない口之津の薪炭の大部分は天草からの購入で賄われていました。

山出しの長い木を「バイセン」と云う船で運んでくるのを、二~三軒共回で購入して、冬の仕事として適当な長さに切り、これを割って家の軒下に積んで一年中使うのが普通でした。私達は、陸揚げされるこの薪を運ぶのを手伝いました。

それは薪の中に混じっているニッキ(肉桂)やトリモチの木の皮が欲しいばかりの手伝いでした。

その木があれば別にしておき、後でその皮を剥ぐのを、大人はちゃんと心得ていて、後でトリモチの作り方を敦えてくれました。

これは大人が、子供への伝承と共存共栄の社会生活のあり方を教えるささやかな指導でもありました。

こうした私達の幼少時代の思い出はつきないのですが、華やかだった明治時代から一転して不況の大正時代ーー 殊に三井の口之津業務閉鎖はこれに拍車をかけ、前途に大きな暗影を投げかけました。

その頃から養蚕業が盛んになり、製糸工場が出来、ミカン・ブドウ・百合・馬鈴薯・グリンピース・マホラン・ラミー栽培が奨励され、緬羊の導入、ホームスパン等々世は次第に変わって行きました。

 

天草から来た薪積み船「バイセン」と薪揚げ風景
天草から来た薪積み船「バイセン」と薪揚げ風景