おこんご

おこんご     白石正秀

口之津港は、急流早崎海峡の難所を抱えた有明海の要衝にあるため、風帆船時代には、やむなく潮待ち風待ちする船の寄港地として、江戸時代から知られていました。

明治になってから三井が三池炭田を手に入れ、次々に開坑する炭鉱は増炭に次ぐ増炭で、ついに海外に輸出するまでになりました。

こうなると、三川港といっていた三池の浅く小さな港は利用されなくなり、有明海沿岸で最も良港とされる口之津港が浮上しました。

三井は、早速口之津港の利用を決定して、明治十一年五月に、千早丸(四六〇トン)に石炭を満載して上海に向けたのが、輸出の第一号船でした。それから、明治二十二年には特別輸出港となり、同二十九年には博多や唐津などとともに輸出入貿易港となりました。これからの口之津は人口が激増し、港には船がひしめき合い、空前の賑わいを呈する町となりました。

 

おこんご遊郭通り

おこんご遊郭通りこうした港町には、特有の遊廓がありました。もちろん口之津もその例外でなく、逢泊(おおどまり)(現在の東・西大泊)といって、当時の歓楽街でありました。現在では、その跡形もなくなり、大泊という行政区名に変わっていますが、小字はやはり逢泊というロマンチックな地名が残っています。

この頃は爆発的に人口が増加していたので、商家も娼楼も一般住家も混在してしまい、風紀上憂慮する状態の街となっていました。たまたま、明治三十年一月、県令第四号貸産敷及び娼妓取締令の改正となり、散在した娼楼も苧扱川(おこんご)に集団移転することになりました。これが苧扱川遊廓です。

この芋扱川の地名については色々な説がありますが、ここでは省略します。ただ、考えさせられることがあります。それは、先年来館された久留米の人が、「久留米にもこれと回し字の地名があります。しかし久留米は苧扱川(おこんがわ)といいます。やはり色街です。」ということでした。この最後の「色街です」が気になります。なぜ、芋扱川は色街だろう。・・・?

それはそれとして、芋扱川に移築した遊廓は、当時としては珍しい木造三階建ての豪華な建物で、道をはさんで立ち並ぶ堂々たる色街だったといいます。

明治三十五年頃の配置図は次のとおりです。

遊郭地図
遊郭地図
おこんご遊郭通り
おこんご遊郭通り

紅提灯に灯がともりや ランプに青い灯もついた

もう、おこんごに夜が来た 街に人影うごめけば調子はずれの三味線が 遠く二階でなり出した

首筋までも白々と 厚化粧しか姐さんが

格子窓から客招く バッタンフルの異人さん

俥で通う旦那さん うろちょろしていた若衆も

いつの問にやら知らぬうち 暖簾くぐって客となる

人さまざまな夜の街 おこんごの夜は更けていく

 

こんな調子で、とにもかくにも賑わったといいます。

~お前が情(つれ)なくするならば

わしゃ おこんごへ また帰ろう

こんな都々逸(どどいつ)を歌いながら帰宅した旦那さんもいたといいます。今では、この遊廓は一軒も残らず、つわものどもが夢の跡は整然とした行政区南大泊として繁栄しています。

 

おこんご遊郭を移築した西有家の某宅
おこんご遊郭を移築した西有家の某宅