のろし山

のろし山    白石正秀

子供の頃、早崎祭に行くときは、必ず東方の上の仏坂(ほとけざか)を越え、のろし山の横道を通って行きました。そして、「ここには狐ん、おっとげな」と言いながら、知らぬうちに足早になっていたもんでした。

そもそも「のろし」とは、「烽火」と書き、火急の場合、昼は煙を上げ夜は火を焚いて知らせる一種の通報手段でありました。

この烽火の歴史は非常に古く、日本書紀には「大智天皇の時代(六六四年)、対馬島、壱岐島、筑紫の国などに防人(さきもり)と烽火(とぶひ)を置く」と記してあります。また、奈良時代には非常の設備として高台に設置したそうですが、日中には煙をよく立ちのぼらせるため、狼の糞をくべたと言います。そのため鎌倉時代から、のろしを狼煙と書き、その番人を狼煙守(のろしもり)と書くようになったと言います。その頃、狼の糞を燃やすほど、たくさんの狼がいたか分かりませんが、物の本にそんな事が古いてあります。

 

「のろし」をあげた遺構
「のろし」をあげた遺構

 

また、太宰府管内では、明らかに使節の船と分かった時は一矩、もし賊船と知った時は二矩、二〇〇隻以上の時は三矩を放つという規定もありました。

さて、狐が居ったか、居らなかったかは、とにかくとして………口之津ののろし山はどうだったのでしょうか?

この、のろし山のある地は、土地台帳や図面には「口之津町大字早崎宇野呂志おおあざはやさきあざのろし)」と書いてあります。そうすると、通称の「のろし山」と台帳の野呂志はどんな関係があるのか疑問が出てきますが、ここでは、それはそっとしておいて……烽火の話を続けます。

肥前風土記(奈良時代の地誌)によれば、烽火は「肥前の国に二〇ヵ所、そのうち高来(たく)の郡(こおり)(今の南・北高来郡)に烽火(とぶひ)は五所なり」と記されています。………が、残念ながら、設置の場所は書いてありません。そこで口之津ののろし山は、この五ヵ所のうちに入っているに違いないと、何とか確証を得たいと考え、今から三十年前の昭和四十一年の八月、九大の鏡山猛先生、熊本女子大の乙益重高先生、および島原史学会の古田正隆、上田俊之の両先生を招き、三日間にわたり調査してもらいました。

その結果、「古代の烽火の跡を物語る有力な資料は見当たらなかった。わが国の考古学界では、古代はもちろん、中世、近世の烽火台について確実な調査例がなく比較する例証もないので、口之津の烽火台の石塁群が烽火の遺構であるとは即断しかねる」と言うことでした。

ここで一縷の望みは消え失せましたが・・・。一体この石積遺構と土壇(写真参照)は、何を目的として構築したのでしょうか。あるいは、創設時の形状を基礎として二次、三次と手が加えられ今日この形状を遺しているのでしょうが、何故だろうと疑念が残ります。

 

のろし山

のろし山  長さ六米、幅四米、高さ二米の楕円形の玄武岩の石積みであるこの施設は、内部に祀られている稲荷神の祠を保護するためにしては余りにも大げさ過ぎるし、また、「標高八十八米の有明海入口にあり、野母崎の最先(みさき)の警護所から30キロ、次の伝達地・湯島まで10キロの中継地が口之津ののろし山である」という、先人の言い伝えは後世に語り継がねばなりません。

去る日、久方ぶりに、この山に登ってみましたら、この遺構には大きな社が建てられていました。崇祀者の皆さんによるもので、周囲の石塁は原形のとおり何の損傷もなく残してありました。さすが敬神する皆さんと感じました。

今後は古式蜂火施設の価値をまったく失っていないのろし山であることを祈りつつ、山を降りました。