セメント岩堀りと競輪競馬

セメント岩堀りと競輪競馬 (貝瀬区) 白石正秀

前述の製塩がやまると、この塩出を掘り起こしセメント岩堀りが始まりました。

この事業を企画したのは貝瀬区の多比良半次郎と云う軍人上がりの人で、明治四十二年頃から始め、毎月五十万斤(三〇〇屯)を堀り出し、これを港まで運搬して和船に積み込み佐賀のセメント会社に送っていました。

このため新設した道路をトロッコ道またはレール道と云って平地より一米余り高く土盛りして、巾一米ぐらいの道とし、これにレールを敷いた一直線の道が港まで続いていました。

暗緑色のセメント岩を満戟して毎日何十回となく押すトロッコ作業は、実に重労働の連続だったと云います。

セメント岩堀
セメント岩堀

この事業もセメント会社の倒産で二年同位で中止となったそうです。

こうして岩を掘り取った跡は、六~七ヵ所の鹹水池となりました。この池を所の人達は岩堤と云って、戦前までは子供達の格好の海水浴場となっていました。

また、水門から出入りする魚類が住みつき、浅い所にはあさり貝が繁殖したので、泳ぐ子供、貝据る女、魚捕る大人等で夏の岩堤は人出の多い所でした。

-競馬―

明治の末頃、岩場の周囲を整地し、更に現在の海員学校敷地を含む東部一帯を利用し、五〇〇米ばかりのトラックを造成して、明治の末頃から大正始めの頃まで、草野と云う人の経営で競馬が催されました。毎回十数頭の馬が各地から集められましたが、この地方には馬がいなかったので遠く諌早方面から来ていたと云いますから、かなり大仕掛けの競馬であったことが想像されます。この競馬はいわゆる草競馬で、今日のようなギャンブル性はなく単に勝ち負けを楽しむ、当時なりの娯楽だったようです。

かすかな記憶の中で思い出されることは、主催者が客寄せの一策として騎手に人形を乗せて走らせるという奇抜な着想だったと思います。その人形は、竹の骨組みに軍服を着せ威勢のよい姿でした。観衆はこの成り行きを好奇の眼で見張っていました。

いよいよスタートです。人間騎手数頭馬の中に、りりしい軍服姿の人形騎手馬も出発点に並びました。出発の合図で一斉に走りだしましたが、重量のないのに余程勝手が違ったとみえて、人形騎手はニ十米ばかり極めて不本意そうな徐行をしていました。もともと軽い人形を背中に括りつけている程度ですから、この徐行にも段々傾きかけ、五十米も走った頃には完全に落ち、上体は地面に擦りついていました。

この状態に驚いた馬は急に方向をかえ一目散、出発点に逆戻りしました。可愛想に人形の姿は目茶苦茶でした。

観衆は先頭を走る人間騎手には目もくれず、逆戻りした人形騎手の決勝点入りの早かったのに拍手と哄笑で満場が沸いていました。

―競輪-

競馬が止んだ次の年から、このトラックを使って自転車競争、即ち今日の競輪が催されました。

主催者は、大正の初め頃に貝瀬区のひらつね本店の出来る前、笹田自転車店といって郡内屈指の自転車屋がありました(現、長崎市在住?)。この店主の主催で、各地から選手が集まって行われていたと云います。これも勝ち負けを喜ぶ娯楽で、ギャンブル性はなかったのでした。

口之津からも選手として焚場(栄町)の万亀商店の店員さんが度々出たそうですが、これが不思議なことに一ペんも優勝したことがなかったゲナ……。

こうした競馬も競輪も当時は口之津だけの催しごとで、その度に街は沸いていたのでしたが、その蔭には三池築港完成と云う口之津の命脈を奪う大事業が着々と進み、衰退の日がひしひしと迫っていたのでした。