税関

税関(東大泊区)     白石正秀

税関庁舎
税関庁舎

明治の頃の口之津は、他村の追いつけないほどの人口を持ち、他所に見られない景気と活気に満ちた文化の町でした。

この町の中心街は、焚陽「たてば」(栄町)から東大泊までの間であったといいます。

当時まったくの消費地であった口之津は、加津佐方面から魚類、有馬方面から米穀類、天草から薪炭類と、それぞれの供給地を抱えていました。

特に加津佐方面から来る鰯売さんが、鰯を入れた笊を天秤棒で担ぎ、朝早くから列をなして小走りして、『イワシヤヨガンヒョカーイ』と甲高い声で売り急ぐ姿、忙しい中にも何ともいえない町の風情があったといいます。

この人たちは各自目的地を決めて行商するですが、その分かれ道となったのが久木山東の末続酒屋前の「フケンタン」でした。この下り坂を一気にり下るのが大屋行き、そのまま直行するのが町行きと七分三分に、はっきり分かれていたそうです。

もちろん、七分は消費量が多くよく売れる町地区で、やはり口之津の銀座は商店や官庁が集中する大泊一帯だったようです。 (古老の話より)

前U置きが長くなりましたが、この中心地の突端に当時としてはびっくりすような洋風の建物が建ちました。それが、現在、資料館となっている税関です。

口之津が石炭輸出港となった明治十一年五月、長崎税関口之津取締所として仲町の油屋本家(永野伸蔵宅)に事務所を構えました。この税関、第一号の通関船は46Oトンの帆船「千早丸」で、三池石炭を満載し上海に向けて出航しました。

この年の輸出炭はわずか九千八百トンでしたが、最盛期には九十二万トンを輸出するまでになりました。

明治二十九年、口之津港は、輸出入貿易港として、博多・唐津などとともに指定を受けました。その頃から輸出炭が急増し税関業務もいよいよ繁多となったので、手狭となった庁舎を新築することになりまし。

この口之津税関が落成したのは、明治三十二年四月のことでした。

新庁舎時の職員(明治32年)
新庁舎時の職員(明治32年)

そもそも税関とは、貿易港・空港・国境などで貨物の輸出入の許否や関税・噸税などの賦課徴収、船舶・航空機の旅客の携帯品の取り締まりなどの事務を取り扱う役所ですが、口之津の場合は主として輸出石炭に対する噸税の賦課徴収であったといいます。

口之津税関は町名の恵比須鼻に海面埋立地を加え、総面積四五十坪の敷地に庁舎六三坪、官舎二棟で五二坪、附属建物十坪を建築し、これ港側を取り巻いた煉瓦塀八二メートルの構築費も加えて、総計八、二三八円五七銭だっ記録があります。貨幣価値の違う現在では全く考えられない昔のことですが、おもしろい記録です。

つづく

旧税関庁舎
旧税関庁舎

 

税関の恵比寿様
税関の恵比寿様
恵比寿祭りのあとで
恵比寿祭りのあとで