肥料会社

肥料会社  (栄町)  白石正秀

明治三十年代の口之津は、石炭輸出の最盛期を迎え景気に湧いていましたが、農業面においては、昔ながらの下肥(人糞尿)や厩堆肥による肥培の繰り返しで遅々として進歩がなく、農家収益増進の改善策が強く叫ばれるようになっていました。

 

「肥料会社」通り
「肥料会社」通り

これを憂えた、時の南高来郡長・松原英義氏は郡内各村長と諾り、各科の財政に応じて株式を割当て、明治三十三年十二月、資本金拾萬円の島原肥料株式会社を設立しました。

本社を島原湊町に置き、輸入肥料の取扱いの便宜上、支店を口之津に設置して各村に取次店を設け、肥料の売買業を始めました。

最初の頃は口之津の三井物産会社の手により、清国(中国)産の大豆粕、菜種粕を輸入して郡内の各村に販売することを主業としていました。

ところが農家の肥料の需要は一定せず、特に稲麦作の時期には変動が甚だしく、これに対応する現品の確保はなかなか困難だったと云います。それで会社は、申込量の変更しないことを条件に、例え他所から好条件の商談があっても、これを拒絶して、約定の現品確保につとめ、当時なりの商道を守り通したと云いますから、今どき考えも及ばぬ話であります。

その後、郡役所に農業巡回教師(峯幾太郎)を置き、新肥の過燐酸石灰の施用を奨励しましたが、当時は農業に関する知識に乏しく、初めて使う化学肥料の施用に戸惑うものが多く、予定の売れ行きに達せず、在庫品が多くなり容器の叺が破れるなどで、多大の損失を招いたと云います。

そのため郡役所では、施肥に関する講習・実演会を開催して改良普及につとめた結果、徐々に肥料に対する知識が高まり、進んでこの肥料を求めるようになりました。

こうした事で軌道にのった肥料会社は明治四十二年四月、本社を島原から口之津に移し、大正三年には過燐酸石灰工場を増設し機械器具を整備して、翌大正四年には蒸汽々罐による運転作業を始め極めて順調な操業を続けていましたが、第一次世界大戦のため原料の硫酸の人手が困難となり、遂に過燐酸の製造を中止して有明人造肥料と銘うって専ら配介肥料の製造に切り替え、その業績を上げていました。

三階建ての高い工場、赤煉瓦の大煙突、昼夜を分かたず発動機の音がしていました。

この工場は独特な悪臭のある工場で、今考えると、これは配合肥料の原料に種粕や魚肥を使っていたからと思いますが、とにもかくにも臭い工場でした。もう、この臭かった工場の事を知っている人が少なくなってしまいました。

子供の頃、母に連れられよくこの工場の前を通りました。発動機の音も珍しいものの一つでしたが、何と云っても臭いので鼻をつまんで走って通りました。「くさい、くさい」と云うと、「肥料(こやし)じゃんば、くさからじゃ」と云って、落ち着き払って歩いていた母を患い出します。下肥しか知らなかった母は、臭いのが肥料と決め込んでいたらしかった……。

戦時体制となり、統制が強化され、肥料会社も廃業し、解体されてその面影もなくなりました。

かつては農家経済の一翼を支えてくれた肥料会社のその跡に、これまた、農業経穴の柱石として活躍する農協がJAの旗じるしのもとに隆々たる業績を上げているのは、農業と肥料の縁の深さを今更のように物語っているようです。