三井倶楽部

東方にあったクラブ
東方にあったクラブ

三井倶楽部(東方区)

文 白石正秀

次々に開坑する三池炭田の増炭に輸出炭は年を逐うて増大し、輸出港である口之津港は明治二十二年には、門司、唐津、下関等と肩を並べる特別輸出港に指定されました。

そこで、三井は発展の根拠を口之津に決め、諸施設を拡充し、明治二十四年には会社の幹部及び高級船員の宿泊保養施設として「倶楽部」を建設しました。また、三井支店をここに移して三井の本拠としました。

その場所は東方区。現在、植木氏の所有地で、広大な敷地です。裏には、テニスコートも作ってあったといいます。

東方にあったクラブ
東方にあったクラブ

話は変わりますが、その頃は修学旅行というものはなかった時代でしたが、口加高等小学校の生徒だけは毎年大牟田見学の一泊旅行があったそうです。しかも、それには時の三井支店長松尾長太郎氏が、社船方出出丸を提供してくれたので、生徒達は藁草履を履いて赤ケット(毛布)姿で、喜びの修学旅行をしたそうです。

時の校長・田口鷹吉先生は、その後、支店事務所の在るこの倶楽部の前を通る生徒には、一旦停止して、事務所に向かって挙手の礼を続けさせたという話があります。

当時なりに何の抵抗もなく、謝礼の意味の敬礼だったということは、今に残る三井さまさま時代の微笑ましい語り草でもあります。

さて、こうした事が繰り返されているうち、明治ニ十九年には輸出貿易港となり、口之津は最好調の景気を迎え、人が溢れ店が並び、この世の春を謳歌していました。

ところが、かねてから噂のあった三池築港が本格化してきたのです。三井は産炭地から離れた遠い不便極まりない小さな港-口之津相手では、立ち行けない程の好況を迎えていました。そこで、財力にものをいわせ、三池築港の計画をたて、ひそかに大牟田川、諏訪川、大高川尻のボーリングをして計画の具体化を図っていました。

この築港の完成は、口之津の命脈を断ったのですが、その企画の大幹部たちが口之津に来て楽しくテニスをしていたとは何と皮肉なものでしょう。

膨大な投資によって明治四十二年には、さしもの大事業が完成しました。

築港だなんて、夢物語と考えていた口之津が、三池築港完成という現実の前に周章狼狽するさまは悲愴としかいいようがありません。

公園に移築したクラブ
公園に移築したクラブ

港を埋め尽くしていた船舶は激減し、支店という名は三池支店の出張所という名に格下げされ、近郷近在から来る行商人の足は絶え、集団移住していた与論の人達は三池へ移住したり帰島するなど、今までの景気は何処へやら火の消えた様な町に変わり果てました。

倶楽部も利用する人が絶え、その用を失い、遂に払い下げの羽目になってしまいました。

これを買収したのは西人泊の中尾栄蔵という人で、この人は直ちに公園(今の広場)に移築して、料理屋兼旅館の営業をしましたが、大正十二年、三井がいよいよ三池へ引き揚げると、決定的な不況の波にのみ込まれ廃業売却してしまいました(大正十五年)

その後は加津佐の柊旅館となりましたが、この旅館も昭和四十七年解体してしまいました。

これで三井という名の遺物は全く消えることになりますので、何とか一物でもと思い、解体のとき欄問と瓦を貰い受け、辛うじて口之津と苦楽を共にした三井倶楽部の名残りの一部を止めることが出来たのです。

欄間と三井マークの入った小瓦は資料館に再現した明治の商店舗の施設に利用し、社章の入った大瓦は貴垂な三井遺物として海の資料館に展示しています。

この大瓦は今日もまた、集い来る多くの観覧者に語りかけます、微笑みながら……

「明治の口之津はヨカッタ!」と・・・

三井クラブの瓦
三井クラブの瓦
三井クラブの瓦
三井クラブの瓦
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