劇場ものがたり

口之津劇場
口之津劇場

劇場ものがたり(栄町区)

文 白石正秀

むかし、東方区の現、伊東信一郎氏宅の付近に「七福座」という廻り舞台の大きな芝居小屋があったそうです。

この芝居小屋で明治十六年旧22日二月、一行三十五名の大一座が十五日間興業することになり、これに関する色々な取り決めを請元と取り交しか約定書が残っています。(資料館展示中)……これによると総経費百九十円で、一座を請け入れて興業をしています。

当時の物価は米一俵一円二十五銭で、この時代の百九十円は莫大な金額でした。この請元が儲けたか損したかは分かりませんが、こんな大芝居をうったのですから、この頃の口之津は大したものでした。

口之津劇場

口之津劇場 こうした芝居で楽しみ、景気に浮かれた明治の時代はいつしか過ぎ……。不況にあえぐ大正時代には、現金収入の途として養蚕業が盛んになり、その生産繭の販売機関として繭市場が栄町(元の丸畑)に創設されました。これは、繭の販売時期だけ利用するもので、そうでない時はこれを娯楽場とし、その名を「口之津座」と言って、その当時から流行し始めた活動写真や、芝居と活動写真を組み合わせた連鎖劇という変わった演劇が行われました。また、浪花節なども絶えず来演して、不況に打ち沈みがちな村人達を大変勇気付けていました。

しかし、この時代も長く続かず、蚕業界の不況は遂に繭市場の閉鎖となり、村人達は再び娯楽の場を失ってしまいました。

時たま来る田舎廻りの浪曲師(さいもんかたり)が、焚場(栄町)や大屋の本田酒屋の下、貝瀬の家畜市場などの広場を見付け、そこに天幕を張り巡らして作った臨時の小屋で開演し、村人達を喜ばせていました。

こうした村人達に何とか娯楽の喜びを・・・と、三宅治利、哲翁鉄治氏は数人の同志と諮り、島原にあったが映画館「占勝館」を買収して、現、山北クリニック付近に移築し、内部を改造して「口之津劇場」と命名しました。(昭和十三年)

この劇場の柿落とし(新築した劇場の初興業のこと)に来演した鼈甲斎虎丸一行が、翌目、天草に渡航中遭難した鬼池丸事件が起こりましたが、ここでは省略します。

それは、それとして、この劇場は今迄とは全く違ったものが上演される様になり、町民から娯楽の場としてたいへん親しまれるようになりました。

こうして何年か経った時、どこから来たのか突然現れたのが「堀金時」という旅役者でした。

この人は実に異色人で、口之津劇場を買収して再び内部を改造し、映画は勿論、他の演劇にも自由に活用出来る施設とし、色々な劇団を招き、時には自作自演の芝居を上演するなど-町では「金時芝居」と言って大変な人気者でした。

戦争が熾烈となり食糧が不足する時代となった頃は、一流芸能人達は今まで振り向きもしなかった田舎へ流れ込んで興業をするようになりました。

この機をうまく捕らえた金時さんは、今では考えられない人物を招致して町民を驚かせました。

歌舞伎大俳優の松本幸四郎一行、ムーランルージュ、時の名女優、明日待子や伏見直江、浪曲会の名人、天中軒雲月や酒井雲  等々の来演がありました。

これとは別に普通劇団で、柳川から来ていた相浦劇団の名演技は、口之津を湧かせていました。また、大屋中橋に太洋館という映画専門館のあったことも忘れられない事です。

こんな時代もすみ、テレビ時代と移り……。金時さんも劇場を手放し、いつとはなしに口之津から消えました。

名は思い出しても、その最後は誰も知らない。実に太く短く、そしてさびしい金時さんの生涯でした。

太洋館
太洋館
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