口之津製糸場

口之津製糸場

口之津製糸場 (加美区)

文 白石正秀

口之津製糸場
口之津製糸場

早崎の古老は、口を揃えて

「製糸場で、世帯潰した(しょちゃつんぶるた)」と言います。

世帯を潰すということは、いうまでもなく財産を潰すことで、不幸な経済的出来事があったに違いない。なぜだろ・・・?

石炭輸出(ごへだつみ)の仕事がなくなり、現金収入の途を失った口之津は、当時、県が奨励していた養蚕業に農家のほとんどが取り組むようになりました。幸いにして、気候、土質ともに栽桑に適しかところから年々盛んになり、僅かの問に郡内屈指の養蚕村になりました。

そのため農家に労力が不足するようになり、天草から娘たちが季節労働者としてたくさん来て、ほとんどの養蚕家で一目十六、七銭の賃金で働いていました。この養蚕業も初めの頃は年産ハハ◯貰(三、三〇〇kg)で、その価格は三、一四一円のわずかでしたが、大正五年には九、三九〇貫(三五、〇〇〇kg)となり、価格も五四、六五四円という巨額にのぼり、その収入は口之津経済の柱となるほどの基幹産業となりました。

生産された繭(まゆ)は、仲買人等によって一方的に値踏みされ買取られていたため、生産者としては極めて不本意なものでした。この取引方法が改善さて、郡内の主要な産地に繭市場が開設されるようになり、口之津にも大正九年に繭市場が開設されました。その場所は焚場(たでば)(栄町)の元丸畑百貨店のところでした。

繭市場に出荷された繭は、製糸会社や地方仲買人が集まって、入札によって決められたので、入札のたびごとに養蚕家は、それはそれは真剣な表情で結果を見守っていました。

製糸場の跡地
製糸場の跡地

こうして、繭の取り引きはこの市場取り引きで一応安定していましたが、養蚕家のなかに生繭で売るより生糸に加工して売ればより有利になると考える者が出始めた頃、口之津より農業の先進地であった隣村加津佐では、大正七年、水月に加津佐製糸揚と銘打った大きな製糸揚が設立されました。

この工場は、地場産業第一号として注目されたものでした。

大煙突から毎日立ち上る黒煙が愛宕山になびき、朝な夕なに群がり歩く女工さんたちに、加津佐の街は活気に溢れていました。

隣村加津佐に湧く景気に比べ、石炭船の来なくなった口之津は不景気のどん底にあったため、「口之津にも製糸揚を・・・ 」との声が出始め、特に大養蚕家の多い早崎地方には積極的な声が強く、期せずして資本金十三万円の株式会社日之津製糸揚の設立となりました。場所は早崎加美の現・果樹試験馬前一帯の地でした。

規模は繰糸釜敷六七釜で、従業員一〇一名。当時としては珍しい大工場で、大煙突から立ち上る黒煙はのろし山をかすめ、地元早崎をはじめ村内の娘たちの職場となり、一時期平時早崎は大変賑わうところとなりました。

♪ のろし山から見下せば あれは口之津製糸揚

ぐるりは板かべ 硝子窓

硝子窓からちょいと見れば に十七、ハの小娘が

運転前掛け胸にかけ 糸とる姿の品のよさ

いかなる私も惚れるわい

( 古老の唄より )

こんな素朴な唄が流行したことも昔話となってしまいました。この工場で生産する生糸も、始めの頃は順調に進み、年産一六、〇〇〇貫(六〇、〇〇〇㎏)を生産し、大変有望視されていました。

ところが、経済界の動揺に敏感な生糸相場は投機的な要素があり、これに対応する能力に乏しい農家組の経営はたちまちにして破綻の状態となってしまいました。

こうなって崩れかかると実に早いもので、昭和元年には遂に解散する羽目になってしまいました。

このため投資の返還どころか損失金の補償を負わされ、この負担金のため財産を潰したのでした。しかもこれは、製糸場の所在地の早崎地区の大農家であったことは気の毒なことでありました。

しかし、その後はそれぞれ立直って、今は「製糸場で世帯潰した」は、過ぎた昔の物語りとして、談笑のうちに聞けるようになりました。

タイトルとURLをコピーしました