屋号の多い口之津

戸袋に表示された屋号
戸袋に表示された屋号

屋号の多い口之津

文 白石正秀

戸袋に表示された屋号
戸袋に表示された屋号

昔からどこの町でも、屋号のついている家はよくありましたが、この近傍では口之津ほど屋号の多い町はなかったでしょう。

そもそも屋号は、名字とは別につけられた称号で、「家名(いえな)・門名(かどな)・株名(かぶな)」と云う所もあるそうです。

そしてその付け方は、地勢・方向等による住所そのものにつけられたもの、また、出身地・本家・分家・隠居・職業等その家筋に対してつけられたものが多かったようです。

ただ口之津の場合には、所有する船名が直ちに屋号となっている例が多い点に特色があります。

なぜ、名字があるのに屋号がつけられたのでしょうか。名字は武士に限り許されていたものが、明治三年に国民のすべてに名字が許され、四民(士農工商)平等の世となりました。そのため、地域、地域に同性が多くなり、特に商家は別称の屋号を必要とするようになったのです。また、名字を率直に云うことがはばかられたので、いつとはなしに別称を云うようになり、それがやがては屋号となってしまったとか色々の理由があるようです。

特に口之津は、港に集まる客を相手の商家が多かったので地名をつけた屋号が多くありました。

それは、客の生国地名であれば100%の客はその店に集まり、そうでない地名にしても旅する船は不思議に地名を好むので、その心理を捕らえて自店の宣伝効果をねらっていたようでした。

それでは、口之津の屋号を先輩の島田進先生及び久保長治氏の調査に基づき、更に調査を進めました結果は次のとおりです。

一、屋号に地名をつけたもの 三七戸 (町部 三七戸)

二、その他の屋号をつけたもの 六五戸(町部 五五戸  大屋 一〇戸)

三、船名を屋号としたもの 二一戸 (大屋 二一戸)

四、遊廓の屋号 二〇戸(おこんご 九戸 中橋 一一戸

五、特殊な屋号のもの一八 (町部 三戸  早崎 三戸 大屋 五戸)

計・・・一五四戸

右の数を更に分析すると、地名をつけたものの100%は町部で、しかもその六二%は三大泊で占めています。

その他の屋号をつけたものでも、町部はその八五%を占めています。

こうしてみるとやはり、町部は口之津の中心街であり、わけてもハ坂町から大泊地区は一番繁華街であった事が窺われます。

家の表二階の戸袋に、鏝師の塗り出した屋号の字が浮き出て並んでいる町並みには港町風情が溢れていました。

今日、この町並みが残っていれば、「町起こし」のよき起爆剤であったろうに、残念ながら時の流れは、この町並みを残してくれませんでした。

これは云っても仕方のないこと、話を替えて、口之津の遊廓にはどんな屋号がついていたでしょう?

「花月、松月、対帆楼」はさすが、おこんご遊廓を代表する楼廓だけに風格のある屋号がついていました。

また、人屋の中橋(港町)には、「気晴、喜楽亭、北有亭」等々、若者が走り込む様なそれぞれの屋号の料亭が立ち並んでいました。

昔のつわものどもが、この屋号を聞いたら奮い立って喜ぶでしょうが、今はそれもなく、その時代を知る人さえもなくなってしまいました。

口之津が最も栄えていた頃、大屋地区には帆船を所有する船主が沢山いました。外部の人はこの船主の家を、そこの船名で呼んでいました。それが何時しか、その家の屋号となってしまった様で、商家の屋号とは発生源がいささか違うようです。

何れにしても屋号は屋号、この屋号が活躍した頃の口之津は黄金時代だったに違いありません。

こんな時代はもう来ないでしょうか。

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