平山船員無縁墓地

平山船員無縁墓地の墓碑群
平山船員無縁墓地の墓碑群

平山船員無縁墓地(東方区)

文 白石正秀

毎年、海の記念日(今年から海の日)には、必ず平山船員無縁墓地の供養祭が行われます。

これは、東方区の平山墓地に区画を設けて建立してある物故船員の供養祭でありまして、船員の町・口之津の歴史の1頁に書きとめておかねばと思い、本号に登載しました。

移り行く世につれて、わが口之津もほとんどの家が建て変わり、道路は舗装され、上水道は完備し、水準高い生活が出来る町となりました。これと併せて旧い墓が新しく建てかえられ、麗々しく書かれた金箔文字が至る所の墓地に見られます。

それに比べると昔は荒れるにまかせ、盆から盆まで寄りつかないほど疎んぜられたのが墓地でしたのに………。

さて、ここで言う平山船員無縁墓地とは

去る昭和四十四年の夏、ある調査のため平山墓地に行っ

平山船員無縁墓地の墓碑群
平山船員無縁墓地の墓碑群

さて、ここで言う平山船員無縁墓地とは

去る昭和四十四年の夏、ある調査のため平山墓地に行った時のことです。この墓地も例外でなくひどい荒れようで、奥の方は雑木が生い茂り草は地面を覆い、足を踏み入れるには勇気がいるような所でした。その中に立派な標柱があり、よく見れば「船員墓地」の字がはっきり彫り込んであるのです。藪を掻き分けて進むと沢山の墓碑が悠然と並んでいました。こうした事で好奇心にかられ、翌日は早速役場職員数名の奉仕作業で藪を切り払って、やっとのことで船員菊地の区画であることを俳誌しました。

そしてその年の七月二十日海の記念日を期し関係町民の参列のもと、玉峰寺住職中村和尚により、平山船員無縁墓地の第一回供養祭が懇ろに執り行われました。

次年度から町内船員三団体と役場担当課職員の奉仕作業によって墓地は清掃され、香華灯燭を供え、供養祭が毎年絶ゆることなく行われ、今年は三十回目の供養祭でした。

もともと荒廃し切っていた墓地のことで、一角は崩壊して墓碑も倒壊寸前のものもありました。

昭和四十六年玉縁寺住職は、この人改修工事を施工し、更に昭和五十四年には墓地全面の舗装をなすなど、多額の自費を投じて今日では立派な船員墓地となっております。

この墓地の記録作成のため、昭和五十九年七月徹底的な調査を行いました。

それによると、この地を物故船員墓地に設定したのは、明治十五年、二十世玉峰寺住職南嶺育仙和尚でした。

そして、この墓地に建立する墓碑三十三基のうち、明らかに船員墓碑と確認するもの二十一基で、葬られた物故者は三十六人でした。

何れが病死か何れが不慮の死か分かりませんが、墓碑の一つ一つにその碑の建立者名が克明に彫り込まれています。それには物故者の上司あり、同僚船員あり、また他船の船員あり、これら多くの人達の浄財で建立されているのが分かります。同じ海上で働く者の仲問意識に徹しか美挙と言うべきでしょう。死亡平均年齢は三十三歳の若さ。没年は明治十八年から三十三年の頃で、口之津がいよいよこれから発展する途上の年であります。

出身地別、その他は紙面の都合で省きますが、異郷の地口之津で四十二歳の若さで客死したイギリス人の墓があります。

外人墓碑
外人墓碑

この墓も船員有志によって建立されています。

帰りを待ち焦がれている家人に何と伝えよう。どこでどうしてと聞かれたら何と答えよう。砕け散る思いで、この墓を建てたのではないでしょうか。

一基の墓をめぐって、さまざまな思いが湧いてきます。

さひしげな外人墓碑には、今日も初冬の陽ざしが力ない光を投げかけています。

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