天草渡海船

天草渡海船    白石正秀

 

客を待つ渡海船(東大泊)
客を待つ渡海船(東大泊)

汽車も自動車もなかった時代のこの地方は、交通機関のすべては船でした。

船の出入の頻繁であった口之津には、この船にいろいろな呼称がありました。

客を乗せる帆船(渡海船)をトーカイセン、荷物を積む帆船をバイセン、石災を積む帆船をクロフネ、発動機で走る船をハッドセン。また、島原経由四ツ山(大牟田)行きの朝一番に出る蒸気船をアサジョク、この船が夕刻帰港するのがユージョクと、それぞれに面白い名があり、また、歴史もありました。

昔はトトバタ(港に面した岸辺)で、古老からこれらの話をよく聞かされたものです。かくいう私もいつの問にやらその古老になってしまいましたが・:。

さて、口之津と指呼の間にある天草は、遠く島原の乱はもとより、百四十年も続いた島原藩の天草郡預かりでもあった関係から、浅からぬ因縁のある所であります。

明治期に於ける双方の交流は年を逐うて盛んになり、特に貿易港として繁栄した口之津は一万二千の人口を抱え、都市並みの消費地となり、あらゆる物資は他に依存していました。

わけても、生活必需物資の薪炭は専ら天草からの供給で賄われていました。こうした経済流通が盛んになるにつれ人の往来もはげしくなり、それに使ったのが渡海船という帆と櫓で走る船でした。

最盛期にはこの船が二十二隻もいて、東大泊の金物屋廻漕店が一手に取り仕切っていました。

大正期の運賃は一人二十五銭で、一艘貸切りは六十銭でしたので、客は四、五人集まってよく貸切りで渡ったと云います。

この船は順調な潮で順風の時は一時間程で鬼池に着きましたが、潮流が速であったり逆風の場合は、半日がかりで灘を右往左往していたそうです。

この頃、東大泊の藤戸安雄氏(金物屋)は、小浜自動車会社の中古エンジンを手に入れ帆船に取り付け、天草通いの機械船として速力が早いのと珍しいので大変な人気でしたが、故障が多くて長続きはしなかったという話もあります。

この当時、島原の漆器商・伊藤卯馬ハ氏は、熊本から本渡方面の旅館に漆器販売して、鬼池から口之津経由で島原への帰途、船を貸切るのにたびたび風がどうだ、潮がどうだと足元をみて船賃を上げられるので、何とかして機械船を通わせ、自由に渡れるようにしたいと、同志を募り五人による五星商会と云う会社を設立しました。

そして、その第一号機械船が大正八年に就航した第一隼丸で、長さ六尋(約10m)の新造船でした。その建造費は百六十円だったと云います。続いて第二隼丸を口之津の松尾造船所で建造、大正九年六月進水、その船長に西大泊の永野康喜氏。大正十四年、十ー人乗りの千鳥丸、同年に焼玉式のつばめ丸(12トン)も就航しました。

 

口鉄丸のち普賢丸
口鉄丸のち普賢丸

また、昭和四年には鬼他村の長島大藏氏が鬼池丸を新造して、この航路に食い込みました。その次が九十九丸(18トン)、昭和十四年には夏吉の大崎長市氏の鉄船元山丸が鬼池経由三角行きとして就航するなど、この航路は複雑なものになりました。

そのため五星面会は岡山から大型船の喜勝丸(27トン)を購入して、鬼池丸と対抗しました。これが一銭競争までエスカレートして、天草から往復二銭で口之津の汽車見学に来たという笑えぬ実話が生まれました(昭和6年)。

ちょうどその頃は、口之津鉄道が天草に進出した時で、喜勝丸、九十九丸、鬼池丸の三隻は口之津鉄道に買収されたので、半年も続いた一銭競争も同時に解決しました。

昭和十四年の一月には鬼池丸遭難事件が起こりましたが、これは次号に譲ります。

口之津鉄道は三原造船所で新造した船を口鉄丸(41トン)と命名、これはまもなく普賢丸と改名し口之津~鬼池航路を独占しました。

昭和十八年、口鉄は島鉄と合併して昭和三十六年には霧島丸(103トン)を建造し就航させました。

輸送の大量化とスピード化に対応して昭和四十ー年にフェリー第一号・普賢丸(356トン)が就航、翌年、天洋丸(355トン)、昭和五十七年「あまくさ」 (361トン)、平成5年には新鋭船。「くちのつ」が就航しました。

忙しげに出入りする新鋭フェリーの船影は、かつて渡海船と云った帆船時代を更に更に遠くし、今昔の感一入のものがあります。

※浜田芳喜氏・永野康喜氏の談話より