玉峰寺

玉峰寺      白石正秀

 

明治43年に行われた玉峰寺の「授戒会」
明治43年に行われた玉峰寺の「授戒会」

永禄六年(1563)五月、修道師ルイス・アルメーダは、島原伝道に続き口之津に来て、僅か二週間の伝道で二百五十名の信者を得たのに始まり、まもなくこの地に教会を建立しました。

翌七年には、かの有名な宣教師フロイスが口之津教会に居を定め、膨大な日本史を著しました。続いて南蛮船が入港し、天正七年(1579)、三回目の入港時には、巡察師ヴァリニャーノが上陸して、この教会で全国宣教師大会を開くなど、期せずして口之津は西日本における、キリシタン布教の根拠地となりました。

ところで、この布教の本拠となった口之津教会の所在地については、諸書の多くはハ坂町の不断河から現・玉峰寺一帯とありますが、一説には東大泊の高台と云う説もあります。残念ながら、何れにも物的証拠となる資料はみつかっていません。

ともあれ、こうしたキリシタンの隆盛は、幕府の厳しい禁教弾圧となり、遂には三万七千の島民が一致団結して、十ニ万四千の幕軍と三ヵ月に及ぶ戦闘を続け、全員戦死したという悲惨極まりない島原の乱によってこの地は壊滅し、特に神社仏閣にいたるまで徹底的な破却にあったと云われます。

 

改修前の裏山門
改修前の裏山門

さて、主題の玉峰寺でありますが、当寺の古文書によれば、寛永十六年(1639)、代官・鈴木三郎九郎重成がこの地で、乱後の治安、特に寺社の復興につとめ、もはやこの地は邪宗(やそ)の地でないことを広く知らせて、各地からの移民を迎え入れることに懸命の努力をしていました。

激しかった人心の動揺がやや落ち着きを取り尻したこの時、民衆は、揺らぐ心の支えに、乱のため破却された不断河の草庵跡に一体の仏像を安置して礼拝していました。

たまたまこの時、乱前、不断河の草庵にいたと云う肥前の国佐賀白石の人、松岩良栄という憎が再びこの地に現れました。

民衆は歓喜して、この僧を迎えました。それからまもなくこの憎は、不所沢に草庵を造って、読経三昧の日を送り、よく民衆の教化につとめました。民衆もまたこの僧を慕い、日夜草庵に集まり、教えをうける者が草常に溢れる様になりました。

これを知った代官・鈴木公は直ちに一宇の堂を建立して、山を太月山、寺を玉峰寺と号して、松岩良栄和尚を常住させることにしました。

その後、承応元年(1652)、肥前の国佐賀郡春日村玉林寺開山・無着妙融和尚の孫、縄山方索和尚の法嗣徹渓龍廓和尚が三人の従者を伴い、この地に来ました。

この時、松岩和尚はこの僧を一見して普通の人でないことを知り、その徳行を慕って浄財を投じ自ら堂宇を譲り、終生随順して民衆の教化に尽くしました。

時は移って寛文九年(1669)、丹波国・福知山の城主、松平主殿頭忠房公が島原城主となり、引き続き乱後の復興に当たり、さきに開山しか玉峰寺に対しては、東四六〇間(109m)、南北五〇間(91m)の約三千坪を境内地とし、境外地二町三反三畝十二歩(7千坪)を寺領として寄進しました。

それで徹渓龍廓和尚はこの境内地に

・葦葺き客殿……四九坪

・葦葺き庫裡……四〇坪

・瓦葺き山門………六坪

・瓦葺き鐘楼………一坪半

を造営し、本尊釈迦牟尼仏を安置しました。(白木野名、山田千左衛門女房寄進)

これで、玉峰寺は確固たる基礎が築かれた事になります。

ここで整理しますと、玉峰寺の開基、開山は次の通りとなります。

・外護開基……鈴木三郎九郎重成公

・開  基……松岩良栄和尚

・開  山……徹渓龍廓大和尚

以上は、宝暦九年(1759)、玉峰寺六世・得巌賢光和尚が、寺社御役所に提出した「寺起立帳」と云う古文書によりまとめたものであります。

この他に、

・潮音院・・・瀬高観音

・海潮庵・・・早崎浜の観音

・龍華庵・・・金十谷びくんさま

・養老軒・・・仲町西ごうの観音

・丸 寺・・・加津佐宮原(現在なし)

以上五ヵ所の末寺がありましたが、現在は瀬高観音を除く外は、地区信者によって奉祀されているということです。

創立以来三百六十年を経た今日、島原・天草の禅宗寺院の中核となった玉峰寺の、現住職は二十五世を数え、本堂・庫院・鐘楼・位牌堂全く成り、わけても日本彫塑界の巨ド・北村四望翁の作になる二十一尺(6・4m)の聖観音増は今日も、信者の焚く香煙に限りない慈愛のまなざしを向けていられました。

参考・・・玉峰寺古文書