静雲寺

静雲寺    白石正秀

 

静雲寺本堂(昭和53年頃)
静雲寺本堂(昭和53年頃)

教海山静雲寺は、阿弥陀如来を本尊とし、宗祖を親鸞聖人とした浄土真宗本願寺西派に属するお寺であります。

天慶三年(九四〇)、藤原純友が本郡多比良材(現、国見町)に来た時、その家来の平小軍太と云うものが僧となって静雲と称していたと古書には記してあります。

この僧は今の雲仙にあった温泉山大乗院満明寺の末寺大龍寺の住職となっていました。とろこが、そのころ世に云う「白雀の乱」が起こったのです。

元亀二年(一五七二)古湯にあった僧房の学一丸は白雀を飼っていましたが、別所の宝寿丸とこの白雀を皆せ、貸さんの口論となり誤って、この白雀を殺したのに始まって、双方の僧の大乱闘とまでなってしまいました。これが有馬の領主義貞が、兵三百をもって鎮定したという「白雀の乱」で、満明寺を始め三百の僧房は悉く焼失してしまいました。

このため二人の稚児は、千々石加持川の上流にある滝に突き落として殺されてしまいました。

この滝が「稚児落しの滝」と云い伝えられているものです。

云うまでもなくこの時、大龍寺も焼失したので憎の静雲は、帰俗して農業を営んでいました。

この人の遠孫に当たる右門という人、安永年中(一七七二)-(一七八一)、憎となって浄祐と号し、大龍寺の遺跡を追慕し草庵を興し静雲庵と名づけました。

一説によると藤原純友死後、その一族平氏がこの地方に隠住し、そのうちの一人平小軍太と云うもの、山伏となり、京都醍醐三宝院の門跡で、真言宗当山流の大龍寺を建立し、その住職となったが、火災により焼失し、この地で農業を営んでいたというのです。しかし、当時は源氏一族の天下で平氏一族とは仇同志であったため、平姓を多比良姓に改め、南北朝時代、農を捨てて武士として返り咲き多比良城を築かせ、多比良重通、多比良重純を中心として、有馬氏と通じ南朝側について活躍したと云います。

その後、領主有馬氏は延岡に移りましたが、多比良氏はそのまま残って農業などしていたらしいが、島原の乱後、南目地方は無大の境となったので、当時の藩主高力氏の命で多比良一族は口之津へ移住しました。

土黒(国見町)の烏兎神社を信仰していた多比良一族は明治の頃まで、この神を奉じて、この神社に万灯籠、石段、鳥居など奉納しています。

(私も先年、現地に行き、石段、万灯籠等に彫り込みのあるのを確認しました)

話が神様話になってしまいましたが、主題の静霊寺話を続けます。

慶応三年(一八六八)、平性道師(初代)は、真乗寺に勤めていましたが、故あって真乗寺より分派して願により慶応三年正月十一日付をもって、本派本願寺末に列許され、静雲庵を静雲寺に改め、同月同日、住職に補せられました。これは、明治三十年五月ニ十日寺院明細帳に編入の件、地方庁の許認を得ています。

その後は漸次寺門は興隆の途についていましたが、年経るに従い本堂は老朽化し、改築期に至りましたので改築の計画軌道のり進まんとした折も祈、昭和十四年、突如、第四世平弘賢師に召集令状が下り出征となり、やむを得ずこれを中断し、昭和十七年に至って竣工したのが現在の本堂であります。

また、梵鐘は明治四十五年、加津佐山口の多比良タケ氏の寄贈で、京都の梵鐘師の鋳造によるものでしたが、これまた太平洋戦争で供出の憂き目に逢い、現在の鐘は終戦後、口之津の桧尾開亀鉄工所の鋳造によって製作されました。

大正元年に行われた初代梵鐘の鐘引きと、終戦後に行われた二代目梵鐘の鐘引きの行事は、門徒総出で稚児の行列を交え、それぞれに大変な賑わいだったと云います。

なお、第三世の平弘立師は、大正の頃、口之津消防組と云った時代の組頭で、当時の消肪組を指揮した名組頭として有名でした。

第四世平弘賢師は早くから社会福祉に心をいたし、昭和の初期から農繁期託児所を開設し、昭和二十八年に至っては、口之津第一号の保育園を創設し、口之津保育園として第五世に引き継ぎ今日に至っています。

第五世の現往職のもと、寺門益々隆昌に向かうことは同慶の至りであります。

 

参考:・国見町史・島原ばなし

鐘楼
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