カナダの萬蔵

カナダの萬蔵       白石正秀

 

近頃、「カナダの萬蔵」とよく聞く名前ですが、そもそも、この人はどんな人でしょう?

この人は-安政二年(1855)、口之津町西人泊に於て、父・永野喜平、母・永野タ子の四男として生まれ、少年になると石炭人夫として働き始め、その頃、からゆき船に乗ると白飯が食えて五十銭の賃金が貰えると先輩から聞かされ、十九才の時(1876)、口之津入港の上海行き英国船アーガス号に、水夫見習い釜焚き(火夫)として乗り込み、香港を始め東南アジア諸国を経て、明治十年(1877)、二十二才の若さで、ニューウエストミンスターに寄港した時、脱船して蜜入国しました。

それからフレザー河口の鮭網業に従事すること二年。この間、彼は抜群の才能を現わし、下手な英語を使いながらも巧みに他との交流を図り、いつの間にか、グループの中心人物となっていました。

そして、無尽蔵といわれる鮭を塩漬け缶詰めとして日本に輸出する彼の着眼は、見事に当たりました。それに、萬蔵の商才と勘の鋭さを見込んだ日本人の田村新吉(後、貴族院議員となる)は、萬蔵の望むがままに融資して彼を支援したので、彼の事業は瞬く間に業界の王座を占めるまでになりました。

 

永野萬蔵夫妻
永野萬蔵夫妻

順風にのった披は、すかさずビクトリア大道に豪華なビルを建設し、日本美術品店と日用雑貨店を開店しました。これが当たりに当たって、素晴らしい業績をあげたのでした。

この時の萬蔵は、カナダ在住三十年を経、年齢五十歳という、まさに円熟の頂点に達していたのでしたが……。好事魔多しとか、この萬蔵に黒い大きな影のさしているのをまだ知りませんでした。

カナダ移民も一万五千人に膨れ、この中には成功者も多く現れたので、白人達は故国を占拠される恐怖感を抱き、遂に日本人移民反対を叫ぶようになりました。

そのため、日系人の多数が従事する漁業を厳しく制限したので、萬蔵の輸出業は不振となり、折からの第一次世界大戦の勃発は、貿易の頓挫となり、日本美術品の売行きも激減しました。

「商売が思わしくないためか、体の調子がよくないワイ」と、いつになく弱音を吐く萬蔵になっていました。それは彼を虫ばんでいた肺結核の進行による体調の不良でありました。

悪い時はよく重なるもので、その年の秋、突如とし起きた不審火は彼の全財産を無残にも焼き尽くしたのでした。

往年には「鉄の心臓」と云われたさすがの彼も、自失呆然としてやる方ない傷心を抱き、妻・多誉子を伴い、住み馴れたカナダを後に郷里・口之津へ帰りました。

口之津では、港に近い仲町の長門屋(現、太田氏)の離れ家で多誉子夫人の手厚い看護を受けていましたが、その甲斐もなく「もう一度カナダに行きたい」と云いながら息を引きとったのでした。時に大正十三年五月二十一日、享年七十才でありました。

かつては、カナダ大尽の異名をとった萬蔵は、郷里・口之津の玉峰寺墓地に、妻・多誉子の建立した「先岳院萬嶺實相居士」の墓標の下に永遠の眠りについたのであります。

 

永野萬蔵の墓
永野萬蔵の墓

時は流れて、昭和五十二年(1977)、彼の地に於て日系移民百年祭が催され、移民第一号の萬蔵の業績を「萬蔵は日本人開拓者の草分けにして随一の成功者とし、カナダ西部の開拓史に刻まるべきである」と評価し、同時に連邦政府はBC州北部リバース・インレット湖畔にそびえる一九五一mの山を「マウント・マンゾー・ナガノ」(永野萬蔵山)と命名して、彼を永遠に称えることにしました。

この山に第一回登山したのは昭和五十四年(1979)で、萬蔵の曽孫等五人でー昨、平成九年八月二十四日、有名な登山家・藤原謙一氏を団長として一行八名が登山しました。(何れも写真は資料館にある)

萬蔵の後に続いた、カナダ移民に口之津町ハ坂町の北村高明氏があります。この人も大正十三年(1924)、十九歳の若さでカナダに移民し、萬蔵の後裔と親交を重ね、萬蔵の享年から六十年目(1991)に口之津に夫婦で帰り、カナダ連邦政府の発行した萬蔵山命名の証明書の写し、萬蔵一家の写真、地図、新聞等を携え来館し、カナダ国旗(資料館展示)を萬蔵の墓にかけ、香を焚き心ゆくまで故人を偲び、再びカナダヘ帰られました。現在では九十四歳にしてまだかくしゃくとしていられる事はご同慶に存じます。

カナダの山に託された郷土出身・永野萬蔵の名は、日本とカナダ交流史に永く残る事でしょう。

参考:・日系新聞「ニューカナデアン」