口之津に来た三井

口之津に来た三井    白石正秀

(編集作業中 誤字脱字があります)

先年亡くなった、作家司馬遼太郎先生は、その著書「街道を行く十七」の中で、「名残りの口之津」と題して口之津を次のように書いています。

 

三井物産口之津支店(八坂町)
三井物産口之津支店(八坂町)

「島原半島は、有明海に対して拳固(げんこ)をつきだしたようにして、海面から盛りあがっている。拳固から小指だけが離れ、関節がわずかにまたがって水をたたえているのが、古代からの錨地である口之津である」

さて、この古代からの錨地口之津は四百三十年の昔から南蛮船の投錨があり、泰西の思想と文物が揚陸され、明治期の資本勃興時代になると、三井と云う財閥がこの地に来て、大小さまざまな内外船の停船する港にしました。

それでは三井はなぜ、この口之津に来たのでしょう?

それは、輸出炭の業務管理と云えばそれまでですが、今年の三月で閉山になった三井炭鉱に話はさかのぼります。

もともと三池炭鉱は一部は三池藩、他の一部は柳川藩の藩営でありました。しかし地下鉱脈の境界の不明から紛争が絶えなかったので、政府はこの炭鉱紛争収拾のためこれを買収して官有として工部省鉱山寮の直営事業としました。

そこで政府は三池で堀り出した石炭を地元大牟田、島原の運漕業者の賃積みで対岸の島原港に送り、そこで帆船に積み替え、瀬戸内海方面の製塩用燃料として販売したのです。

ところが、大浦、七浦、勝立鉱等相次ぐ開鉱によりその産炭量は、内地需要量をはるかに上廻り、販路を海外にひろげる必要に迫られました。

 

口之津へ石炭を積出した大牟田港
口之津へ石炭を積出した大牟田港

そのため政府は石炭見本を海外に送り、その販路を求めましたところ、上海の招商局から申込みがあり、直ちに海外市場開拓の舞台が拓けました。三井はこの機を逃さず、三池炭販売依託申請を政府に提出してすぐ販売権を獲得しました。

これから三井の手によって石炭輸出が始まりますが、当時の三池の港は遠浅のため大型輸送船は停船できませんでした。

そこで浮上したのが口之津港でした。港内が狭くて浅いと云う難点はありましたが、港外の利用の出来る利点があるので、有明海沿岸では口之津港が最優良港として位置づけられ、やがて三井は三池港の外港的な役割をする重要港として重視するようになったのです。

当初の輸出の経路は大牟田積込み、口之津積替え、それを更に長崎で積替え、通関手続きをして上海という極めて煩雑な径路でした。この煩わしさを省くため、口之津から直輸出の許可を申請したところ、政府は規則を制定して許可したので、これによって帆船千早丸(460トン)が三池石炭を満載して上海に直行しました。これが口之津輸出第一号船であります。(明治十一年五月二十二日)

これから石炭市場が清国の上海に拓け、天津、香港、シンガポールと逐次開かれてゆきます。

一方政府は、販路も輸出体制も整ったこの時点で、煩わしい官営事業の三池炭鉱業務一切を民営に移管することにして、これを入札に付することにしました。

商才に優れた三井は、この入札に社運を賭けていました。入札の結果は、二番札との差二千三百円で落札しました。この落札が三池炭鉱の運命を決し、三井社運隆盛の原動力となったのです。

また、二千三百円は、こんにちの三井財閥の礎石でもありました。

これから三井は口之津に根をおろし、上海行き運炭船を英国から輸入し、秀吉九(729トン)頼朝丸(986トン)などと名を付け、これに充てました。また、自社設計の船には愛宕山丸(2358トン)富士山丸(2358トン)と口之津所在の山名を付け、これも英国で建造して運炭船としました。

なお、施設として三井倶楽部(東方)支店の新設(現、哲翁病院の敷地の一部)、貯炭場として中橋(港町)に二万一千坪を増設、三井船舶課が口之津支店内に設置(後の三井船舶の前身)されるなど……。

こうして口之津に三井様々の時代を作ったのでした。

参考・・・三井創業八十年史・三井鉱山の百年史