口之津を去った三井

口之津を去った三井   白石正秀

 

三井が口之津に根をおろして石炭の輸出を始めた明治十年の輸出量は、年間僅か九千八百屯でしたが、明治三十九年には九十二万屯と云う驚く程の激増でした。

その間、口之津は三池石炭仮輸出港(明治11年)から門司、博多、小樽等と肩を並べる特別輸出港になりました(明治22年)。また、明治二十九年には輸出入貿易港に指定され開港場となりました。この時の開港式は、それはそれは大変な賑わいで、その頃の老人達は賑わうことを「カイコウシキ」と云っていたと云います。

その後の口之津は港に船が輻輳(ふくそう)し、街には人が溢れ、まさに黄金時代の到来にわが世の春を謳っていました。

ところがこれと裏腹に三井は不利不便で業務拡張の余地のない、しかも莫大な経費を要する口之津輸出を真剣に考え直していました。そこで仮に三池直輸出とした場合と、現在の口之津経由の経費を試算分析しましたところ実に驚くべき結果が出ました。それは、口之津経由の経費が一屯当たり一円を要するものが、三池直輸出とした場合は僅かニ十銭ですむと云うことでした。

 

ブイの撤去作業
ブイの撤去作業

 

この結果を得た三井は三池築港を決断しました。それから直ちに重役の団琢磨、牧田環の両氏は現地に向かい極秘のうちに、大牟田川、諏訪川、大島川尻を三ヵ年の歳月をかけてボーリングして土質の調査をしました。そして明治三十五年十一月三日の天長節を期し、起工式を挙行するまでに取り進めたのでした。

その頃の口之津は毎日三池との交流があったので、大きな工事の始まった事くらいは知っていたかもしれませんが、まさかあの時代に築港の大事業があることは夢にも知らなかったのでした。

「一里も二里も干上がる三池に港ン出来るもんナ、そりゃ三井の偉か人ン、だまさすとタイ」

こんな訓子で全然問題にしませんでした。それ程まで口之津は景気に有頂天になっていたのです。

三井は、だますどころか、三七六万円(現貨換算、約三、七六〇億円)と云う膨大な資力を投じ述べ二六二万人の人手を使い、七ヵ年の歳月をかけ、しかも最新の築港工学を駆使して世界に誇る人工築港の竣工に成功しました。

一方口之津は、三池築港の完成した明治四十二年には、入港船舶は半減し、しかも入港船舶の殆どが自舶用の燃料炭の積込みでしたので、輸出炭は九十二万屯から急落して十四万屯に激減しました。これに伴い業務も半減したので、三井の支店は三池支店の出張所に格下げされ、最盛期に移住した与論の人達は、大牟田に再移住するやら島に還るやら殆ど残りませんでした。

こうして火の消えた様になった口之津は、時折り入港する船舶で辛うじて港の余命を保っていたのでした。

三井は全力投球で築いた港を活用するため、大正十一年大型船の入港試験を行った結果、大型船入港可能が確実となったので、これを国の内外に宣伝しました。

同時に用のなくなった口之津の閉鎖内報を口之津村長に通報しました(大正11年1月5日)。

これに驚いた口之津村長は直ちに緊急行議会を開催し、三井存続の陳情を村長以下八名、その他の陳情団が毎日続きましたが総ては後の祭りでした。

そして三井は既定方針の通り、大正十二年一月二十三日口之津を閉鎖して引揚げたのです。

引揚げに際して三井は口之津に現金一万円、建物(事務所)六十三坪、桟橋一基を寄附しました。(他に退職金その他もありますが紙面の都合で省略)

村は右の金品を村議会で受入議決をしました。

「口之津の三井か」 三井の口之津か」と云って過ごした四十年。ついに「三井の口之津」であったという答えがはっきり出ました。

口之津は大空に舞い上がった三井鳥の、しばしのとまり木にすぎなかったのでしょうか。

でも、三井は足跡に「口之津船員」を残してくれました。その「口之津船員」は、やがて「日本一の船員の町」を作りましたが……。