島原地震

決壊した貝瀬川護岸
決壊した貝瀬川護岸

島原地震

文 白石正秀

決壊した貝瀬川護岸
決壊した貝瀬川護岸

古い話で、しかも私事で恐縮ですが、大正十一年十二月七日の午後、私は友達と自宅で遊んでいた時、珍しく強い地震がありました。小学生の五年生のときで、大人達が「地震だ!地震だ!」と騒いでいたのが妙に思えていたのでしたが、子供の私達は地震を実感したのはこの時が初めてでした。

その夜は別に変わったこともなく、いつものとおり姉と弟と三人、通常「おまえ」と云っていたハ畳の室に枕を並べて寝入ってしまいました。

ところが真夜中のすさまじい音で、目をさましましたが、真っ暗で何も見えず、すぐそばに柱時計が落ちる音がしました。瞬間、地震だとわかりましたが、その時は既に天井が落ち、二階のがらくた道具が一緒に落ち覆いかぶさっていたので、全く身動きは出来なかったが、どこにも痛さは感じませんでした。

覆いかぶさったものを退けようとすると重さがずうんと加わって、もがく事さえ出来なかったのでしたが、恐ろしさの余り無我夢中にうごいていたら、ひょっとしたはずみに抜け出すことが出来たのです。これは着ていた厚い布団がクッションとなったので運よく助かったのでした。

電灯は消え暗やみでしたが、かすかに光るものが見えたので、そこを目当てに這い出して行きました。

それは小さな豆ランプの光でしたが、そこに両親がいて、半狂乱の態で私達の名を呼んでいました。私を見てほっとする間もなく、姉や弟の名を呼びながら、また、力の限り、落ちた天井を引き起こしていました。

その時、片隅の方から姉が土ぼこりで真っ黒な顔をして無言で這い出て来ました。弟も後に続いて出て来ました。二人ともぶるぶる震えて放心状態でした。私も震いはとまりませんでしたが、いくらか落ち着きを取り戻していたようでした。こうして、親子五人は無事をよろこび抱き合って泣きました。

やがて父は家の内は危ないといって、戸外につれ出しました。

外は満天の星空で底冷えのする夜でした。近所の人達も恐怖におびえながら、広場(旧貝瀬橋付近の農業倉庫の建つ前)に集まりました。次第に避難する人達の数がふえるにつれて恐怖心はうすれたものの、夜明けが待ち遠しくてなりませんでした。だまりこんだ母はうつむいて涙ぐんでいました。

もし、この子等が死んでいたらと云う思いと、現実に無事な子供を見る喜びとかが交錯した涙だったのでしょう。

父は近所の人達と夜明けを待って避難所を造る相談をしていたようです。体に感ずる余震が何回となく続くうち、やがて夜が明け、視界が広がるにつれて被害の状況がはっきりしてきました。

貝瀬川べりの道路は決壊し、中央には亀裂を生じ、二尺(60㎝)の段差が出来、貝瀬墓地の石塔はほとんど倒れ、台石から外れ倒壊寸前のものなど、不気味な状景でした。交通、通信も途絶えてしまい、外部の情報は全く不明の状態のようでした。

恐る恐る自家を見に行ったら、外見は別に変化はなかったが、天井の落ちた家の中は実に無惨な情景でした。既に来ていた両親は、惨状を感慨深くだまって見ていました。

その頃、雲仙が爆発する、大津波が来る、北有馬で死者が出た、加津佐で何人死んだとの流言に人々はまた、不安と恐怖にかられ始めました。

事実、口之津の中橋で女の子が倒壊家屋の下敷きになって幼い命を失いました。生きのびた自分達に比べて、その子供の不幸が哀れでなりませんでした。級友の供えた手造りの花輪が墓前(榎田墓地)に供えてあったのをはっきりと覚えています。

妙なもので、こんな時に学校を見たくなり、友達と連れだって第二校を見に行きました。校庭の真ん中に囲いをして御真影(両陛下の御写真)を校長先生たちが守っていられました。(現代の人達には理解できないでしょうが……)

その日の午前十ー時頃、大きな余震があり、その後も余震は続きましたが、段々減って平常に戻りましたが、何と云っても初めて知った島原地震は凄いものでした。年月の経過と共に記憶もうすれるものですが、天井の下敷きになった、あの恐怖と、両親のあの時の姿を今細大もらさず記憶しています。

両親逝いて既に六十年、地震国日本に起こる大小さまざまな地震情報を聞くたびに、忘れ去られた島原地震が昨日のように蘇って来ます。

囚に島原地震の記録は次の通りです。

※発生日時・・・大正十一年十二月八日、午前一時五二分。

※被害等・:死者二六人、重軽傷者四五人、倒壊家屋(半壊とも) 一、四七九戸。

※宮中より松浦侍従の差遣あり。

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