正妙寺

正妙寺       白石正秀

日蓮上人を宗祖とする正妙寺は、一般には「久木山ン寺」または「法華寺」といってしたしまれ、町内唯一の日蓮宗の寺であります。

 

落成当時の正妙寺(明治40年)
落成当時の正妙寺(明治40年)

この寺の由来はーーー

今を去る七三二年の、文永三年(1266)、亀山天皇の御代・下総の国、地頭太田乗明という者、一子を日蓮上人に棒げて孫弟子としたことに始まります。

この人が中老日高聖人で、正安三年(1301)三月十二日、二十五歳にして大本山法華経寺の第二世を嗣いだ高僧であります。

この僧、正和元年(1312)四月、千葉の守胤貞公の請によって一宇を建立しました。これが正妙寺(口之津正妙寺の前身)でありますが、明治十四年下総国千葉町の大火災により、堂宇伽藍すべてを焼失してしまいました。

一方、この地方では明治六・七年の頃、南串山村溜水に往む、福田丈太郎と云う人、信仰に厚く自ら布教所を開設して、長崎本蓮寺の日嶺上人を招き、当村の巡回教化するなどして布教の実をあげていました。

明治九年に至って、口之津の南喜一郎、植木平三郎ほか多数の発起により、この地に教会所を新設し本蓮寺日領上人を招聘し同寺出張所とする旨の出願が許可されましたので、明治十一年春、教会所を建設し、新しく本蓮寺出張所として日夜教化に尽くしていましたが、日嶺上人が明治十七年二月、遷化(高僧等の死)せられたため、本蓮寺二十七世の梅木沢日修上人がこの地に来て、本堂を建立するなど着実に地歩を築きあげていきました。

 

 

正妙寺
正妙寺

それに信者有志の発願もあり、明治三十年四月、前記下総千葉町から正妙寺を移し、山号を「放光山」とするに至りました。これが現在の正妙寺であります。

それから八年が経過した明治三十八年、現在の本堂、庫裡、造営の大工事にかかりましたが、時あたかも国運をかけた日露戦争の最中で一時中止となり、明治三十九年に再度工事にかかり、翌四十年に落成しました。

当時、このような大工事は今の様に建設機械や機具はなく、すべてが人力で山を崩し整地し、資材の運搬には、作道(田畑への細道)や宅地等を買収して先ず道路から作らねばならず、それはそれは大変な難工事であったと云います。現在の山門下の参道、庫裡下の大規模な石垣に当時の難工事の跡がしのばれます。

また、山門は大正十二年八月に落成。最初の位牌堂は明治四十二年六月に完成しました。

それは、焚場(栄町)にあった与論住宅を所有者・南彦七郎氏が寄進されたものでした。今から百年前の明治三十二年、遠く故郷をはなれ集団移住した与論の人達が喜びも悲しみも共に過ごした住宅だったのです。

時の流れと共に老朽化したこの位牌堂も、幾度か増改築が施されて来ましたが、やがて迎える、

日蓮宗同宗七五〇年の記念事業として、大改築したいという檀家の希望で平成九年九月着工し、翌十年五月に見事完成し、山内の面目が一新されました。

現住職加納学修氏は当山第九世、下総正妙寺通世ハ十五代の住職にして、檀家の信望も厚く、寺門益々隆昌を辿っています。

なお、正妙寺裏の小高い丘を。「めんは山」とか「妙見山」とも云いますが、上地台帳には大松(ううまつ)と云う名がついています。昔は名のとおり大きな松が生えていました。

「めんは山」とは、海でとれたワカメ(めんは)をここで干していたのでいつとはなしにその名がついたと云います。

ここにある堂は大正十三年に信者四十二名が浄財を投じて建立し、北辰妙見大菩薩と法華経守護の三十番神様を合祀して、正妙寺の管理となり、その後幾度か修理修復されて現在に至っています。それにお大師様も琴平様もそれぞれ小さな祠に祀ってあります。

こうして数々の神仏が地域の守護神として祀られ、地区老入会の皆さんが、木を植え草を取るなどして懇ろに管理を続けられることは実に素晴らしいことです。

余談ですが、この山にまつわる話がいまひとつあります。

大正時代になってからも時々石炭積みの本船が入港していました。その時の人夫集めは、小蒸気汽船が汽笛を鳴らして港内を二~三回廻ることで、人夫はすぐ集まる仕組みになっていましたが、山手には汽笛が聞こえぬので下から夫頭さんがメガホンで大声あげて知らせていました。

久木山には久木口と云う口(組)があって、この口の夫頭さんが「めんは山」から大きなメガホンで

『八ノ久保ン○○○シャン 本船ノキタゾー』

八ノ久保ン○○○シャンは、竹の先に手拭をつけて、これを振るのが応答だったそうです。

電話も拡声機もなかった時代の「めんは山」は、こんな事にも役立っていたのです。

 

参考・:正妙寺古文書、口之津の社寺(高橋忠義著)