山田右衛門作

山田右衛門作     白石正秀

 

山田右衛門作の住居跡と供養塔
山田右衛門作の住居跡と供養塔

南蛮絵師・山国右衛門作について、久留米大学教授・竹村覚氏の著書に「呼称と云い、経歴と云い、伝説と云い、作品と云い、まことにとらえがたい人物である」と、著しています。

まさにその通りで、この人の生涯は数奇にして多彩、芸術家らしく、また、武芸者らしく振る舞う姿は島原の乱を彩る実に劇的な人物で、彼を著した諸書の多様なることは当然と云えましょう。

ただ、披が浪々の身で、「浪人口之津」として大屋(前方)に居住して、得意とする絵筆をもって生活していた事は諸書の多くに見るところでありますが、絵の修学についてはポルトガル人に従って西洋画法を学んだとか、有馬セミナリヨ(キリスト学校)に通って耶蘇画像を書いて学んだとか、これまたいろんな説があります。

一方、島原の乱は追討使・板倉重昌の着陣を控え、寛永十四年十二月に入り宗徒は籠城を完了して開戦に備えていました。この時、与茂作は籠城を拒否していましたが、これより先に妻子を人質にとられ仕方なく籠城したのでした。

籠城した与茂作は外の三名と共に武将として取り立てられ、部下二千を与えられ、天草四郎の直属となり、本丸付きの矢文、弾薬その他万般を司っていました。

日を経るにつれて原城の戦いはいよいよ熾烈となり、城外からは「逃れて来る者はすべて助命する。強いて立ち向かう者は捕らえて皆殺しにする。疑わず降伏せよ……」。城内からは「われわれは幕府に反抗するのでなく、迫害から信仰を守るためで、降伏する意は全くない」-こうした矢文による双方の駆け引きと探り合いが続きました。

こんな矢文のやりとりでは、らちがあかぬと考えた第二の追討使・松平信綱は、直接談判することに手をかえました。そして、城外の幕軍から有馬の家老・有馬五郎佐衛門の他二名、城内から天草四郎、山田右衛門作、芦塚忠右衛門が出会い、ものものしい警戒のうちに会談が進められましたが、これもまた双方の駆け引きと探り合いのみで空振りに終わりました(大江浜会談)。

その頃、城内では兵糧弾薬共に尽きかけていましたが、その闘志は崩れず最後まで戦い抜き一同手を取り合って天国に行く神の栄光を信じ、彼等は人に従うより神に従う信念に燃えていました。

ところが城外の幕軍は、城内の兵糧弾薬の欠乏は知り尽くしていたので、大筒・小筒をやたらに城内に打ち込みました。

析悪しくその弾丸が四郎の側に落ち、四、五人の付き人が死に、四郎も左袖をちぎられ危うく命を落とすところでした。これを見た城内の者は神様と信じ込んでいた四郎への不信が高まりました。

そしてその噂がたちまち城の内外に広がったのでした。

かねて城内の危機を誰よりも早くから知っていた与茂作は、この実状を見て裏切りを決意しました。

そして恐ろしい計画をたてました。それは天草四郎を誘出して生捕りにする事でした。早速その方法手心段を矢文にして、二月十ハ日、幕軍に向けて放ちました。

与茂作が使った井戸水
与茂作が使った井戸水

これに対して何の反響もないので不審に思っていたところ、その矢文は味方の者に拾われ、事の次第が暴露して、早速、四郎から捕われ、松山の牢に人れられました。彼の妻子も捕えられ既に斬られ、与茂作も危うく斬られるところでしたが、幕軍の総攻撃となり、乱入した小笠原右近大夫の家人に見付けられて助命され、島原の乱でたった一人の生き残りとなりました。

助命された与茂作は桧平信網に連行され、江戸に上り絵を書いて食を得たとか、キリシタン目明しになったとか……、

最後は山田祐庵と号して長崎の小川町に於いてハ十歳で死んだとか、説はまことにもって多様であります。

与茂作の住居跡は真乗寺裏の踏み切り付近。与茂作の用水は前方浄水槽の前。何れも町の文化財に指定されています。

参考・・・助野健太郎著「島原の乱」