与論長屋

与論長屋      白石正秀

与論という島は、鹿児島県の最南端にあり、沖縄まで21㎞、隣島の沖永良部まで32㎞のサンゴ礁からなる低い丘陵性の一島一町の孤島であります。

明治の頃、こんな遠い島から、なぜ口之津へ千人に余る人達が移住したのでしょう?

それは、今から百年前の明治三十一年七月のことです。

この島一帯を襲った台風に続いた旱魃と悪疫流行のため島民は塗炭の苫しみに追い込まれました。

常食のイモがなくなり、たのみにしていたソテツの茎からとれる僅かばかりの澱粉も、これを処理する水がないため、毒素抜きが不十分なものを食い中毒死する者や、栄養失調による死者が続出し、餓死したわが子を墓場に葬る力もなく菰にくるんで岩蔭に捨てたという生き地獄の惨状が続きました。

この災害の実状調査に来た大島郡司の福山宏氏は、被災地の惨状に驚き、急拠県庁に出向き状況報告すると同時に救援方を知事に要請しました。

一方、口之津は明治二十九年、輸出入貿易港の指定を受け、折から宮浦鉱の開鉱による増炭で、長崎港を凌駕するほどの輸出高の急増となりましたが、これに対応する労働力は極度に不足するようになり、この対策に三井はたいへん苦慮していました。

具体策として供給源を離島に着目し、手始めに鹿児島県の甑島に募集を開始するべく、支店長の浅野長七氏は鹿児島県庁に知事を訪問しました。

折りも折り、この時来合わせたのは前記の大島郡司・福山宏氏でした。この二人の出会いは、偶然と云うか奇跡と云うか、実に大きな「出会い」でありました。これが、口之津に生じた三井資本の渇きと、南海の孤島で飢えに苦しむ与論の人達との結びつきであり、縁の始めともなりました。

こうした事で、闇夜に灯火を見つけた思いの三井は、何はさておき、直ちに総請負・南彦七郎氏を与論島に派遣し、村長・上野応介氏に協力を求めることにしました。

村長・上野応介氏は、毎年襲い来る台風、それに続く旱魃と悪疫、これでは与論島民の貧困は永久に救えない、この好機を逃さず移民して「内地の一角に第ニの故郷を築く」-この信念を既に固めていましたので、来島した南氏に全面的な協力をし、島民を説得して募集に懸命な努力をしました。

(この募集話は色々ありますが、紙面の都合で省略します。)

こうしたことで二四〇名の応募者を集めることに成功しました。応募者は十三才から三十才位までの若者で、妻帯者も幾組かいたと云うことです。

上野氏はこの引率者に、自分の娘婿・東元良氏(役場職員、27才)を用いました。それは、外の世界を知らず、与論島を一つの小宇宙と考え貧しいながらも平和に暮らしていた島民にとって、つねに信頼と尊敬に値する指導者が必要であるのに配慮しての事でありました。

(上野村長も明治三十四年、四〇〇人を引率して口之津に住みついた)

一行を乗せた船は南海の激浪にゆられること九日間にしてやっとのことで口之津に到着し、用意された中橋(港町)の長屋と焚場(栄町)の長屋に収容されることになりました。

常夏の国与論島から上陸した一行は、口之津の寒さに震え上がりました

共に働いた口之津の古老との座談会(静雲寺にて:昭和37年9月)
共に働いた口之津の古老との座談会(静雲寺にて:昭和37年9月)

これが彼等のたどる苦難の歴史の第一歩でもありました。

異なる生活風習や言語、苛酷な労働の明け暮れに、新天地を求めた夢は空しく消えたのでした。

訪れた与論のある老婆は当時を思い出し、古びた長屋の柱をなでながら、

「島が恋しゅうて泣いた時、

仕事が辛くて泣いた時、

この柱にもたれると不思議に

心が安らぎました………」と、

この述懐に、この人達の苦労のあとがしみじみと窺われます。

与論の島は誠の島といって、この島の民謡に「誠さえ打ち出せば、何で恥をかくことがあろうか」、この教訓的な歌詞は、例えバカ正直と笑われても、それは集団が生きるための知恵であって恥じる事でないと、指導者たちは常に云いきかせていたと云います。

ともあれ、「与論の人達はよく働きました。何とされても、云われても、ただ黙々と働いていました。」これは、一緒に働いていた今は亡き口之津の古老たちからよく聞かされた話です。

忘れてならないのは、この人達が口之津繁栄の一端を担ってくれたことです…………。

参考・・・「与論町史」