🍴 腹持ちの良いハイオク・ガソリンの話

 ● 昭和60年の2月・・・私は約一年間のプー太郎を経験してます。まあ・・・平たく言えば自分探しの時期って所かなあ。ハローワークは島原市・・・自宅からはバスで約一時間半掛かりました。そこで!当時の愛車(ガンウェル・ロードレーサー)で、島原市の職安までツーリング・・・。ところが職も決まらないのに長居をしてしまい・・・帰路は夜間の帰宅ラッシュにぶつかります。そこで、島原外港の島原ユースホステルに宿泊。それが運で・・・長崎市内のユースホステルへの派遣が決定・・・。約一年間のヘルパー業務が始まりました。

 ● ユースホステルのシーズン中は馬車馬みたいな忙しさでした。それまではお客としての宿泊は百泊以上を各地で経験してましたが、長期のスタッフとしては初めてでした。このユース・・・ちょっと変わっていまして、ペアレントさんが高齢です。更に父さんは糖尿病からリウマチを併発・・・ほぼ寝たきり生活です。要するに、ここのスタッフに成るという事は、ユースの運営を全て任される事になるんですよおおおお!。

 ● この長崎オランダ坂ユースホステルは、外人さんと女の子が沢山宿泊する事で有名でした。最初はハーレムみたいで楽しかったのですが、この女の子って自覚してる女子達は・・・。とにかく甘えたがる子と我ままだらけの女子が大変多く・・・次第にストレスが溜まっていきました。そこで五月のシーズンが終わって、夏休みのシーズンまでの十日間の休みを貰って、四国反時計回りのかっ飛び自転車旅行をやらせてもらいました。

 ● ペアレントの父さんからは、10万円の軍資金を貰い・・・必ずユースに宿泊して見聞を広めて来る事が条件でした。愛車はレーサーです。一日の走行距離は100キロ単位です。ガンガン走ってユースに泊まり、各ユースのペアレントさんと語らい・・・まあシーズンオフなので、四国のユースもお客さんはまばらでした。

 ● 最後に宿泊したのが、小豆島のオリーブユースホステルでした。当時の小豆島には現在みたいな豊富な観光名所が少なく・・・当日が早めの到着でしたので、峠の頂上にある太陽の丘(ピースパーク)と寒霞渓・・・更に岬の分教場(二十四の瞳)の舞台となった場所の見学・・・。まあそれ位かなあ・・・。お金を掛けずに巡れる観光地って・・・。要するに・・・当時のユースを使う旅行者は貧乏だったんですよ。だから、宿泊費の安いユースホステルに泊まるんだから・・・。当時は¥2700(一泊二食)の時代でしたよ。ユースって安いでしょう・・・。

 ● 私にはまだ休みが三日残ってました。そこで、オリーブユースにもう一泊する事に・・・。さて、何をやろうかなあ・・・。そしたらユースのヘルパー君が、「チャレンジ郵便局やってみたら?。」と提案・・・。それって何?って聞いたら、「今日は平日だから島中の簡易郵便局を含む全部が営業してるから、スタンプ集めやったら一日つぶれるよ?。島も一周できるし・・・。サイクリストだけに薦めてるんだけど・・。」で、面白そうだからとやってみました。このチャレンジ郵便局のパロディ版が此れから紹介する、島原半島のソールフード屋さんです。何処のお店で食べてもサイクリストにとっては腹持ちの良いハイオクガソリンに成ります。食べて食べて食べまくる・・・戦車(キャンピング車)もレーサー車もお腹がパンクするまで食べましょう。それが島原半島チャレンジグルメのルールですよ。

  🍴 チャレンジ麺屋さん (島原半島編)

  🍴 チャレンジ・パン屋さん (雲仙市・南島原市編)

           🍴 チャレンジ・ラーメン屋さん (福島市編)

           🍴 チャレンジ・うどん屋さん (四国一周編)
 
 ※ 私の現在の携帯番号を知っている人のみ閲覧できます。(HANGER-HYPER)からどうぞ!。パスワード欄に打ち込んで下さい。見た目項目以上が閲覧できますよ。目指せ!食べログ!・・・とは違った路線かなあ・・・。サイクリストの戦車隊が基準の内容ですから、高カロリー高タンパク!即!ハイオクガソリンに変換できます。

 
※ 因みにサイクリストの戦車隊とは、家財道具を満載し、日本全国を引っ越ししながら旅をするキャンピング専門車両のサイクリストの事ですよ。仕事に明け暮れて、定年後・・・やっと自分の住む日本列島の全体を知る為の旅に出た熟年サイクリストや、若気の好奇心満載の志を持って、見聞を広めながら自分探しの旅をしている若者サイクリストまで・・・。目ん玉二個分でみた日本中の風景と各地の名物の味覚は、必ず良い思い出に成ります。私がそうでしたからね。

 ※ 二十代の終わりに、大阪の自宅アパートから北海道宗谷岬まで、キャンピングを主体に100万の軍資金を持って陸走の旅に出ました。道中の目的は他にも有りまして・・・パチンコの旅打ち・・・。軍資金を元に、パチンコを打ちながらその日に必要な旅費を稼いで自転車で走る・・・。動機は不純ですが楽しい旅でした。丸々軍資金を残してプラスアルファ―・・・三か月後に大阪に戻って来た時は、既に年末・・・。米沢から新潟へ下山中、大雨で途中の標高300メートル地帯の無人駅で野宿・・・。次の日の朝の駅舎の外は、一面の銀世界・・・。積雪は40㎝近かったです。よって自転車に乗っての下山は無理・・・。転がすとアルミ主体のフレームは、直ぐに冷えて雪だるま状態で転がらなくなりました。

 
※ 何気に出発する時、何かに使えるかと自転車に積んだビニールプール・・・空気を入れて自転車バラシて搭載・・・。道端に落ちてたトラロープをプールに結んで、雪の上を滑らせて運ぶ・・・。う~む・・・。そりに家財道具を満載して北極圏を単独走破した植村直巳氏の過酷な旅を垣間見た思いでした。途中で追いついてきたパトカーの隊員さん・・・あと30メートルも標高が下がれば積雪は消えるという情報を貰い・・・カーブを曲がり終えた直線の先のバス停付近には、パトカーと近所のおばさんが立っていました。手には暖かい豚汁持って・・・。東北の人たちは心が温かいです。隊員さんがバス停横の民家に頼んで準備してくれていました。あれから三十年・・・当時出会ったパトカーの隊員さんと近所の叔母さん・・・有難う!。当時出会った叔母さんよりも現在の私は年上の筈・・・。心に残るおもてなし・・・今も忘れていません・・・。