消防演習

消防演習

 

三ヵ村合同消防演習(大正5年)

三ヵ村合同消防演習(大正5年)

初めから固い話になりますが、明治二十七年八月十七日附きの、長崎県告示第一〇八号によって長崎外三十ケ町村に消防組が設置される事になりました。この数少ない町村に口之津町も入っていました。

当時の消防は警察の所管でしたので、口之津警察署の管下の加津佐、南有馬村も、もちろん同じであったと思います。

その頃の消防ポンプは木製だったそうです。明治四十三年三月に時の新鋭消防機としてその機能を誇る金属製の腕用ポンプに替り、第一(町名)第二(大屋名)第三(早崎)に配置し昭和の代までそれが使われていました。

昭和三十八年八月、現在の消防機にバトンを渡し、その姿を消したのです。

戦時中の消防団は警防団として防空、防火の任に当り、戦後は消防団として自治体に移譲され、消防機はすべて腕用から機械化され、その後、組織の改革と相挨って強籾な体制を整えて住民を護っていただいています。

 

口之津火災消防応急団発会式(大正12年・静雲寺)

口之津火災消防応急団発会式(大正12年・静雲寺)

さて、これから先はおどんがこまんかときの消肪組の話に移ります。

今の消防団は団長さんですが、昔は消防組と云ったので長は組頭(くみとう)さんと呼んでいました。そして出初式を消防演習と云っていました。

旧正月七日は消防演習の日で、朝から加津佐の消防組が七つ道具を手に手に持って腕用ポンプニ~三台を引き、手動サイレンもない時代ですから、手振りの鐘を鳴らして県道を何百人かが常々と東の方へ行く。

場所は中橋の三井貯炭場跡(現港町一帯)。そこは広い広い空き地で、消防演習には絶好の場所でした。続いて早崎と町の消防組でした。口之津消防組の制服はハッピでなく黄緑色の服で同色の帽子を被った姿は異彩を放っていました。

第二(大屋組)は既に現場に集合し、南有馬紙も規定の時間には集合したのでしょうが、貝瀬に住む私には分かりませんでした。

ところで、消防演習を一部始終知っていることは、その日が日曜だったのか、年中行事で町をあげての賑う日だと云っても、まさか、学校は休みじゃなかったろう、と色々考えると、どうも、おどみゃ二・三人学校をサボっていた様にもなります。

そのへんは余り詮索しないで下さい……。

先に進みます。その頃の大正五年消防組員は口之津、一八一人、加津佐一〇一人、南有馬二〇一人で組員だけで五百人近く、これにつきそう家族、おどんがごたるサボリ組を合わせると大変な人出でした。

三ケ村の消肪組員が、それぞれの制服に身をかため、警察署長の命合一下一糸乱れぬ行動は見事なものでした。

それぞれの訓練がすむと、後は各村各紙対抗相撲があり、徒競走・綱引き・俵運び等があり、まるで今日の運動会でした。

中でもその花形は放水試験でした。これは試験と云うより放水競技で、高さ七~ハメートルの竹竿の先に、豚の膀胱(小便袋)に空気を入れてふくらまして吊し、これを放水によって落とす。その早さによって順位を決める競技でこれを「豚ん小便袋おとし」と云って当日の呼びものでした。

こんな事で一般の観衆は三ケ村から集まるし、村内は総出の状態なので大変な賑わいとなり、露天や煮売も軒を並べる程でした。

こうした公設の消防組のほかに、青年団や官庁のもつ消防組もありました。青年団のものには久木山・大屋東部・西部・真米、官庁には税関にもありました。このほかにあったかも知れませんが、この私設消防も、消防演習には出ていた様でした。

大正十二年、時の消防組頭、平 弘立氏(静霊寺第三世住職)の発案で、小型手押ポンプの集団で、口之津火災消防応急団と銘打って静霊寺で発会式の写真がありました。

どんな活躍をしたかは分かりませんが、非常時に備えておくことの大切さを当時なりにみんなが考えていたのでした。

 

警察署長の訓辞

警察署長の訓辞

 

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