醤油つくり

醤油つくり

 

おどんがこまんかときの昧噌醤油づくりは、ほとんどの農家と町方の家でも製造していました。

真夏の太陽が少し衰え、秋風が立ち始めると、木陰に筵で日覆いを作り、適当に石を積み臨時のくどを造り、それに焙恪を据えて裸麦を汗ながらに炒る風景があちらこちらに見られました。

これは自家用醤油製造の始めの作業でした。こうして炒った裸麦一斗に煮た大豆二升をよく混ぜ合わせ、風の通らぬ暗い室で筵に拡げてねかせます。約一週問たつときれいな椛になります。

この「椛」 一斗に、水一斗二升、塩二合五勺の割合で大甕にたてこむのです。この人受け大甕は大概の家の片隅か小屋の片隅に据えつけてありました。

 

もろみ混ぜ

もろみ混ぜ

家族の人数でそれぞれの必要量を決め、この大甕に仕込むのであります。大甕には二俵(八斗)も仕込みが出来るそうです。

仕込んでから一週間は竹棒の先に20㎝位いの皿状の木を取り付けた混ぜ棒で毎日丁寧に混ぜ、その後は時々混ぜ、1ヵ年位ねかせます。すると次第にどぶどぶした液状になりますが、これを諸味(もろみ)といい、この出来具合のよしあしが醤油の味を左右するそうです。

それに竹で円筒形に作った目の細かい籠(醤油籠)をさし込みます。こされたきれいな醤油がこれに溜まるので、これをくみ取り、別の容器に移します。これが一番醤油と云って最上級品です。

これを続けているうちに、だんだん籠に溜まらなくなるので、この「もろみ」を取り出しこれを強い木綿袋に入れて、醤油船(てこ式の醤油圧搾器-図参照)に移して搾ります。

 

醤油しぼり器(醤油船)

醤油しぼり器(醤油船)

いよいよ搾り尽くしてしまうと、もろみに若干の水と塩を入れ、煮てこれを再びてこ式の方法で搾ったものを二番醤油といって、これは色も味も格落ちの二級品でした。

色目のよくないものを「二番醤油で煮しめたごたる」と云うのはここから出たのでしょう。

醤油は出来ました。次は味噌です。

これは秋風の立つ九月の始め頃から作ります。先ず裸麦を洗って三時間位い水に潰けておき、これを蒸して、筵に拡げて大体冷えてから「椛の花」(酵母)をふりかけ、醤油の場合と同じ要領で三日間ねかせると立派な椛が出来上がります。

これに茄でた大豆を塩と一緒に搗き混ぜ、出来たものを、一ケ月位おくと、新しい椛の香のする新味噌が出来上がります。

材料とその分量は、椛一斗に大豆二升、塩一升一合だそうです。

これは私より若い老婆から親切に教えてもらったものです。

今頃、醤油を追る人はもういないと思いますが、今でも味噌は昔ながらの手法で追っている人のあるのは誠に結構なことです。

大切な家庭の味、食文化をこうして母から娘へ、姑から嫁へと受け継がれていくのは、今こそ大切なのではないでしょうか。

さて、話は変わりますが、おどんがこまんかときは、自家用醤油を造れば、それに税金がかけられました。

 

明治44年の醤油税領収証書

明治44年の醤油税領収証書

遠い昔、島原の乱が起きる前、領主松倉重政とその子、勝家は親子二代に亘りキリスト教の弾圧と、それに重税を課して領民を苦しめたそうです。その時の課税は、棚作れば棚税、窓作れば窓税と、あらゆるものに税をかけて領民を苦境に追い込みました。

それとこれとは似た様なもんで、明治大正の時代になっても醤油や扇風機にまで税がかかったのです。藩制時代にかえったのではないでしょうが、おどんがこまんかときは、醤油や扇風機にまで課税せねばならぬ程、財政は逼迫していたのでしょうか、今の消費税もこれに似たようなもので、歴史は相変わらず繰りかえすようです。

醤油税は製造量の多寡によらず年間五十銭、これを前後二期に分けて徴収しています。一方扇風機は、大正四年に口之津に流行したもので、使用電気料は、六月一日から九月末日まで昼夜ハ円で、口之津に何台あったか、課税されたのは確かですが、その税額はわかりません。

おどんがこまんかときから醤油、昧噌にはお世話になっていますが、扇風機には全然お世話にならず、団扇でバタバタあおいで汗まみれになって大人になりました。

今どきは、みんなクーラーや扇風機がなけりや夏は越せない弱虫になってしまいましたが、おどんがこまんかときは矢張・我慢者じゃったと思います。

とは、云うもののクーラーの室は涼しくてよかですな!!