台場跡(野向区)
文 白石正秀
幕末に黒船の来襲に備えて、東京湾の品川に僅か一年三ヵ月という短期間で、延べ五千人の人夫と七十五万両の大金を費やして築いたのが「品川台場」と言います。
それと、これとを比較するには違いすぎますが、口之津の台場は、島原藩最後の藩主松平忠和公の時代ーー文久三年(一八六三)に外敵の来襲の備え、限下に瀬詰の瀬戸を見る要害の地として築かれました。
現在は瀬詰観潮台が構築され、昔の面影はありませんが--。当時は、守備兵として農民の中から壮丁を選び訓練して警備に当たらせたと言います。
そこに据え付けた砲は、青銅作りの長さ五尺五寸(一六七cm)、口径二寸五分(七・五cm)位で、砲身の先から弾丸を入れ火をつけるという代物で、大人一人で担ぎ運ぶ程度のものであったと言います。
当時はまだ外国との国交がなかったので、万一の場合ということで備えたのはよかったが-。
果たしてこの大砲で敵船を撃退し得たでしょうか?
役人が試射した時は、すぐ下の波打ち際にポチャンと落ちたそうです。これを見ていた村人たちが心配して、恐る恐る「お役人様、誠に申し上げにくいのですが、この大砲で敵船が撃てるのでしょうか。心配でなりません」。
これを聞いた役人は開き直って大声で「皆の者よく聞け。この大砲の弾丸はナ、敵船を見ない時は今のようにすぐ下に落ちるが、敵船を見るとアレヨアレヨとばかりに飛んで敵船に命中するように作ってあるのじゃ。いらん心配はせんでもよい、早く帰れ」と追い返したということです。
船に弾丸の当たった記録のないところを見ると、船が通らなかったのか、弾丸が水際に落ちたのか、それは分かりませんが-。維新前夜の国防のきびしさは、この地にまで砲台を築く程であった事が窺い知れます。
そんなことは知らんとばかり今目もまた、大潮の瀬詰の瀬戸は轟音と共に大渦を巻き、滔々と橘湾へ流れていきます。