塩浜(貝瀬区)
文 白石正秀
そのまま貪めただけでは塩からいだけの、ひとつまみの塩が複雑な料理の昧を左右し、「うまい、まずいは塩加減」という処生訓の様な諺さえあります。
塩は水や空気のように必要不可欠の、最も用途の広い常用品で、岩塩や海水から塩を上手にとる方法が見出されるまでは実に資重な品だったといわれています。
石炭輸出港として人口が急増した時代の口之津は、都会並みの消費地で、あらゆる物資が不足し、殊にこうした貴重品である塩の人手は困難でした。
そこでハ坂町の庄屋元、本多次郎氏はこの困難を打問するため、明治十三年(一ハハ〇)頃、現、海員学校敷地から西方(海の目の花火打揚げ場所)の堤防内側三町七反(三・七ヘクタール)を開き塩田とし、これを二分して二浜の製塩湯を造り、これで製塩を始めました。
今は埋立てられその跡形もなくなりましたが、昔から「塩浜」と云って大変なつかしまれた所でした。
さて、その当時の製塩の方法は、広い塩田に設けられた二百二十一合の鹹水溜(かんすいだめ)に港から水門内に潮水を入れ、それを汲み込んで天目で乾かして濃度を濃くしたものを集めて釜で焚き、塩の結晶が出来るまで煮詰める仕組でした。
この作業で潮汲みする人を「浜子」と云って二浜に七人、鹹水を寄せる「よせ女」と呼ばれた女の人が五人、その他釜焚き男が朝釜、夜釜に各二人いたので常時十六人が働いていました。
こうして造った塩は一日に七斤(四・ニキロ)入りの俵、百五十俵で日産千五十斤(六三〇キロ)でありました。年間を通じて稼働日数(晴天のみ)百二十日として、十二万六千斤(七五・六トン)の生産量となります。
この塩の販路は地元を始め遠く天草、島原半島一円まで延ばしていたようです。
塩が専売制度となったのは明治三十八年(一九〇五)でしたので、生産した塩は自由販売であった事は云うまでもありません。
こうして続いた製塩業は明治十八年(一ハ八五)には直営事業から請負業に変わりました。
請負人が塩浜主に提出した契約書には、次のようなことが書いてありました。
證
一、塩浜一ケ所借用仰せ付ケニツキ、大切ニオ預リシマス
ニ、一日ノ上納塩八十二斤入俵ヲ十俵ヅツ毎日上納シマス
三、晴天ノ日ハ毎日怠ラズ製塩シマス、モシ怠ッタ時ハーケ年分ヲ百日トシテソノ分ヲー時二上納シマス
四、コノホカ抵当入リノ金証ヲ差入レテオキマスカラ契約違背ノ節ハオ引取リ下サレテモ異議ハ申シマセン
右受人連署確証如件
明治十八年二月ニ十四日
塩浜主何某 殿
昔はこんな調子の一方的な契約で働かされ、事業主には「旦那様、旦那様」と云って過ごした時代でした。
話は変わりますが、塩にまつわる話では、口之津に三池石炭が来なくなって貿易港を維持するための塩の輸入が計画され、昭和五年に官塩を輸入し官塩倉庫を東大泊に設立しましたが、長くは続きませんでした。
それから戦時体制となり、あらゆる物資、食糧の配給制度が施かれ切符制となりました。切符はあっても現品のない時代となり、町は塩の供給のため温泉熱を利用して製塩事業をしていた小浜の湯元(本多大一氏経営)に、入れないと云うのを無理にねじ込んで委託製塩をして、他町よりいくらか多くの塩を配給した事がありました。
また、昭和二十四、五年の頃、三井船舶会社が南大治の海岸で製塩を始めました。これは自社従業員の特配塩で、喉から手の出る程欲しかったのですが、町の出る幕ではありませんでした。
それもこれも遠い昔物語りとなってしまいましたが、今では何不自由なく使える塩も、そのハ四%は海外輸入といいます。
料理でうるさい『滅塩』は体のためばかりでなく、国の経済にもためになるのです……。