海潮庵

当時の海潮庵
当時の海潮庵

海潮庵(浜区)

文 白石正秀

金十谷の「びくんさん」、早崎の「あんじゅさま」。どちらも庵の待ち主で尼さんですから、逆に、早崎の「びくんさん」金十谷の「あんじゅさま」でもよいのでしょうが、どうしたものか、金十谷は「びくんさん」早崎は「あんじゅさま」と言うようになっています。

伝承されたこの名称を今更いろいろ言うのじゃないですが、両庵とも尼さんが実在しなくなったので、この名称も何れ昔の語り草として消え失せることでしょう。

それはそれとして、そもそも「びくんさん」とは、出家得度(とくど)して具足戒(ぐそくかい)を受け修業した尼僧(あまさん)を言い、男僧を比丘(びく)と言うのだそうです。その得度とは、教化を受けて仏門に入ること。具足戒とは憎が守らねばならない戒律のことで、比丘は二五〇、比丘尼は三四八の戒律が決めてあると言います。

金十谷の『龍華庵(りゅうげあん)』は後日に譲り、本号は早崎の『海潮庵(かいちょうあん』について話を進めます。

当時の海潮庵
当時の海潮庵

この庵の由緒沿革は、記録によると和銅二年(七〇九)に、早崎の字瀬詰に小堂を造ったのが始まりと記されています。何しろ千百九十年前のことで、瀬詰のどの辺か知る由もありませんが、絶えず潮騒の聞こえる、しかも眼下に急流を見る場所であったろうことを想像させます。

時代は変わって宝暦六年六月(一七五六)に、玉峰寺末庵として小庵を造り、本尊に如意輪観世音菩薩と三十三体観世音菩薩を祀りました。

それから百今年の歳月に老朽破壊したので、明治ニ十八年五月(一八九五)、早崎名字西に早崎名中より、観音堂九坪、庫裡三坪、厠(便所)半坪、計十二坪半の瓦葺き建物を建立しました。

その時の庵主様は、春山(しゅんざん)と言う三十八歳の若い尼さんで、たいへん美人だったそうです。美人か不美人かは後人の言うことで、本当のことはご本尊の観音様が一番ご存じでしょうが、口を噤んだまま何にも言ってくれません。

それは仕方ないこととして、それから何代庵王様が交替されたかは詳かでありませんが、最後の庵主様は天草の都呂々(とろろ)村(現在の苓北町)の生まれで、田中孝隣(こうりん)と言う尼さんでした。

もともと「海潮庵」は早崎中で建立した程ですから、ここに奉祀してある観音様はさしづめ早崎住民の信仰の中心でもありました。そのため、庵主様は住民からたいへん慕われていました。

庵玉様もやさしいお方で、宗旨を問わず乞われるままに読経に回っていました。

こうしたさまざまな歴史の中に、早崎往民の先祖供養の一翼を担った庵主様は、昭和四十四年十月三十日、七十八歳の高齢で他界されました。

玉峰寺住職:中村和尚は、懇ろに寺山草地に葬り、「徳明孝隣首座」の戒名を授け玉峰寺に祀り今日に至っております。

昭和五十六年九月竣工の早崎漁港大改修に伴い、関連道路の拡張がなされることとなり、「海潮庵」も敷地の分割譲渡のやむなきに至りました。

樹齢何百年を知らぬ「あこう」樹を眼下に見、遠く瀬詰の潮騒を耳にする、昔の「海潮庵」の姿は見られませんが、跡の小庵には弘法大師を合祀し、鎮西八十八ヵ所二十一番札所の表札も掲げてあります。

挟いながらも楽しい吾が庵-と、仲よく鎮座して、ひたすら早崎住民の幸せを守護していられます。

誰が焚いたか今日もまた、静かに香煙が小庵にゆらいでいました。

現在の海潮庵
現在の海潮庵
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