金十谷竜華庵

昔の竜華庵
昔の竜華庵

金十谷竜華庵(びくんさま)(小利区)

文 白石正秀

昔の竜華庵

昔の竜華庵金十谷と云えば「びくんさま」。昔からここのお祭りを「びくん市」と云って、旧正月に行われるこの地方の三大祭りの一つでした。

この祭りの皮切りは、十三日に行われる北有馬の郷神様(ごうしんさま)、次が十七日の浦田観音、しんがりが二十六日の「びくんさま」でした。どこの祭りも近郷近在から集まる善男善女で、たいへん賑やかなものでした。

考えてみると、昔は今の様にトラックも車もなかった時代に、辺鄙な金十谷まで大ハ車で運んだであろう商品の数々を、戸板に並べた様は、今どきと変わった風情がありました。

子供の頃の私は、学校から帰るとすぐ風呂敷包みの学用品を放り投げて、持ちもしない親に遣銭をねだり、やっと貰った大型の二銭銅貨一枚と、一銭銅貨三枚合わせて五銭をもらいポケットのない着物だったので仕方なく、手汗の出るほど握りしめて、友達のニ人と連れ立って、いそいそと市に行きました。    ・

以下、思い出す昔のびくん市の一駒はこうでした。

居並ぶ店から少し離れた広い場所に、余り色目のよくない横幕を申訳的に目線の高さに張り、その中に筵(むしろ)を敷き、うどん、ちゃんぽん、湯豆腐等を食わせる煮売店(にうりや)がありました。

そこには日頃の忙しい仕事から開放された、幾組みかのおじさん達が陣取って、この日のために傭われたらしい白いエプロン姿の姐さん相手に人声で喋りながら、さも、うまそうに酒を飲んでいる様が、道路からよく見えました。

この祭りの二十六日と云えば正月の餅も既に食い尽くし、外に何も食べ物のなかった時代、しかも貧乏育ちの私は、この煮売場からもれてくる食べ物のにおいが、たまらなく食欲をそそりました。

「においのよかにや……」と云うと、友達二人もすかさず「ほんとん、俺達も食おごたる・・・」と云って、うらめしそうに三人は顔を見合わせました。

こうしている私達のいる前を、赤顔のおじさん達が凱旋将軍の様に、意気揚々と出て来ました。

そして私達を見ると、「子供がこがんところでうろちょろすんな」と叱りつけて通り過ぎました。

大正時代の「びくん市」
大正時代の「びくん市」

私達はこの時ほど「大人はよかにや」と、思った事はありませんでした。そして

五銭の遣銭をしっかり握りしめました。

このほかに、この市名物の植木苗売りと、鍬、鎌、草取り等を売る店がたくさんありました。

この祭りには必ずこれを買い求めて、びくんさまに詣った証と云わんばかりにぶら下げて、帰る人の多かったのも、びくん市の風景の一つでした。

ところで、大事な五銭の行方は紙面の都介で割愛します。

まだ寒風の吹く冬の日のびくん市は、こうした人、さまざまな動きの中に暮れて行きました。

わが町に、旧くから伝承される信仰、年中行事、これにまつわる風俗習慣の一片を、後目に伝えるために書きましたが……。

さて、本論の竜華庵は……

今を去る三百三十八年前の万治二年(1659)に玉峰寺末庵として十一面観世音菩薩を祀り、

その庵号を竜草庵(りゅうげあん)と号しました。竜華とは、お釈迦様の滅後、長い年月を経て弥勒(みろく)菩薩が現れ、竜華樹の許で悟りを開かれたと云う有難い樹の由来から竜華庵と名付けられたと云います。開削当時は小さな堂で、そこに専従する坊様がいたかは小詳ですが、或は信者達が交替でお守りしたか、時々玉峰寺からお守りしたのかも知れません。天明年間(1781)に中道慧林尼と云う尼僧が専従して以来七代継承して、七代目の桑原忍能尼(白山忍能尼首座)の没後、桑原勝栄氏が護持し、灯明絶ゆることなく現在に至っています。

近年、信者の寄進により庵は新築され、昔のびくん市に復活している事はよろこびにたえません。

参考・・・玉峰寺古文書

※この当時(大正十年)の物価は:・アンパンー個二銭、キャラメルー箱五銭、マンジュウー個二銭で、芋飴三十五粒と米飴十粒は一銭、ラムネは一本二銭でした。

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