もらい風呂

もらい風呂

 

景気がよかった頃の明治の記録に、口之津には銭湯が10軒もあったと記されています。どこに何軒、どうあったかは分かりませんが、木ノ崎の元松村医院のところに一軒の湯屋があったのはおぼえています。

この湯屋は熊本県の日奈久から温泉湯を四斗樽に詰めて帆船で運び貝瀬川尻に陸揚げして、これを適当に希釈めて沸かしたもので「ひなご湯」と云っていました。

この湯は「薬湯」と云うので村内一円からお年寄りが、灰色というか鼠色と云うか、とにかく今どきの雑巾色した千拭いをもって一日がかりで通っていたのをよく見かけました。

腰痛に効いたのか、膝痛に効いたか何にどう効いたか知りませんが「木ノ崎の日奈久湯は、ゆう効くなーい・・・」と云う常連客が集まり湯屋の二階は四方山話に花が咲いたそうで、今頃いうコミュニケーンョンの場でした。

今は各家庭に風呂がありますが、おどんがこまんかときは風呂のある家庭は本当にごくわずかでした。それで風呂のない家のものは風呂のある家へ貰い風呂をしたものです。

また、風呂はあっても毎晩は焚かないので、風呂を沸かした時は、そこから「風呂入り来なんへ・・・」と案内がある、そして、貰い風呂の帰りには「ごちそんなりやした・・・」と礼を云ってかえる。風呂もごちそうのうちのようでした。

こうしたことは田舎にしかない実になごやかな風習でした。

昔の風呂は今の様に家の内に造り込まないで、大概は小屋か、はなれた便所と隣り合わせに造ってある、粗末な鉄鋳釜の五右衛門風呂ばかりでした。

燃料は普通麦わらか、風呂焚物と云って海辺の近くの人達は渚に打ち寄せた本片など、山に近い人達は枯れた木の枝(ビャーラ)を、掻き集めた松葉(ゴー)を焚きつけとして沸かしたもので、普通の薪など便って風呂を沸かす家は町方の家か、商人の家ぐらいなものでした。ちなみに「ビャーラ」とはポルトガル語であると資料館に来た大学の先生が教えてくれました。

 

露天の五右衛門風呂

露天の五右衛門風呂

 

風呂場に電灯のあるところは殆どなく、うす暗い石油の豆ランプか、提灯か、裸ローソクでした。

それで湯の濁りなどは分からず、湯が減ると、水桶(水タンゴ)に井戸から釣瓶で汲みためた水を入れ、ぬるくなるのでどんどん燃やし、次から次へと入らなければならぬ忙しさがありました。

鉄製の五右衛門風呂は火を焚くと釜が熱くなるので底板がはめてありました。この底板は釜に取り付けてある、とめ金で一応は浮かないように作ってはあるのですが、これはなかなかきかず浮いているのが普通でした。そのため洗い場で体を洗うのに小桶で湯を汲み出す時この板が邪魔になるもんでした。

また、子供はこの板を踏みつけて入る事が出来ないので、大人が先に踏みつけてから子供をつかまえていらねばなりません。

風呂場には屋根のない、露天風呂もありました。これは自然石をつみかさね適当に塗り固めて作った五右衛門風呂で、粗雑ながらも、風流なものでした。

近所のおじさんが、この風呂に入って両肘を風呂縁にもたせかけ星空を眺めながら大きな声で

♪~口之津名所は、富士山権現

早崎瀬詰、またも名所はのろし山

夜はおこんご、坂もないのに ハ坂町

「ああよか風呂 よか風呂!!」

この姿はまさに、天上天下唯我独尊の境地のようでした。

寒くなると、時々枕ほどの米糠袋を作り風呂に入れて沸かし、これを「濁し湯」または「糠風呂」と云ってよくぬくもるので、お年寄のよろこぶ風呂でした。

おどみや別にぬくもる必要はなし、糠くさいこの湯は好きではなかったがよくつれて行かれました。

翌日この捨て湯を貰って肥甕に移し下肥(人糞尿)とまぜて麦の肥料にやったそうですが、どれだけの肥効分があったかは知らないが、金肥の買えない貧農はこうした苦労の連続で食うに事欠く大正時代でした。

もらい風呂がない時は釜で湯を沸かした湯を盥(たらい)に入れ、チヤブチヤブ浴びる行水でした。盥の湯が減ると母が手桶で湯をつぎたしてくれました。

そのたび「はよう上がらにや、後は待っとるとぞー」と云って急かせました。

なるほど、おどんがこまんか時は、どこの家にも子供が四・五人はいたのですから何もかもゆっくりしては生活は出来ない時代で、火の車の回り通しのおどんがえでした。

こやしたんご

こやしたんご

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