うんどうかい

うんどうかい

 

明治45年の第一小学校運動会

明治45年の第一小学校運動会

 

竹下昭平前第二小学校長の「学校の歴史」によれば、明治三十年頃の運動会は村内ご二小学校合同で、加津佐の野田浜や、南有馬の上原、口之津白浜等で行われたそうです。と云うことは、その頃の運動会は遠足を兼ねた学校行事だったのでしょう。

それはそれとして、おどんがこまんかときの運動会といってもせいぜいハ十年ちょっと前の話しですが、それは、今と回じで、各校の運動場で行われていました。校庭に縄を張り観覧する父兄席と、競技する学童を区別し、中央に大きな旗竿を立てて、それに東大泊の検疫所から借りて来た大小さまざまな旗を張りめぐらしていました。ですから会場は子供心に楽しいようであり、怖いような感じがしたものでした。

正面玄関には、たくさんの来貢がならび、いつになく緊張した校長先生の姿がありました。

一年生だったおどみや、誰が誰やら知らないし、そこを見るのがなんとなくいやなものでした。

順番が進み、いよいよおどんが出番きました。徒競走もあったはずでしたが、その記憶は全くありません。

記憶にのこっているのは一年生の競馬でした。それは、粗末な馬の頭をボール紙に書き、これを切り抜いて一・五メートルくらいの長さの竹にはさみ、それに手綱の紐をつけてあり、この竹にまたがりこの紐を握って走る競争でした。

いまどきの様にランニングシャツなどなかった時代でしたので、母が手縫いで作った白ネルの前のあいた紐付き襦袢、それに申又(パンツ)をはいた一年生の騎手姿は、まさに雄姿だったかも知れません。

先生の云われるままに出発点に並びました。ピストルはないので先生が「ヨーイ、ピッ」と笛を吹くと一年生の若駒は一斉にかけ出しました。先着三位まで商品があったようでしたが、足の短い私はおそかったので賞はもらえなかった。それでその賞が何であったのかいまだに分かりません。

こうした運動会には、それぞれの学校に特色がありました。

特に目を引いたのは町の学校(一小)の城と軍艦の模型でした。大きく作ったその模型に、紅白に分かれた学童がボールを投げ、早く炎上らせた方が勝ちと云う競技で、後は、紅白合同でボールを投げ、城も軍艦も炎上ると云うことでした。これはどの先生の発案か、とにかく運動会の圧巻と云うべきものでした。

早崎の学校(三小)は学童が少なかったので、近くの製糸工場の従業員の参加があり、観客にはお年寄りを招待するなど小さな学校なりに地域に蜜着した温か昧がありました。大屋ん学校(二小)は、応援の声の人さが口之津一にやったゲナ……!

各校の運動会のほかに三校合同の大運動会がありました。これは競技の一つ一つが学校対抗だったので大変な応援でした。特に各校対抗のリレーとなると、全員総立ちの熱狂振りで、端から喧嘩腰でした。

今でも思い出すのは、赤シャツ着た町の学校の選手の速かったこと。これを追う大屋の学校の選手、遂に大接戦となり決勝点でのもめあい・・・。

こうした事が地域間のもめあいとなると云うので結局中止になってしまいました。

話しは変わりますが、「子供は遊び時間でも校門から出てはならない」と云う決まりが守られていた頃のことです。

私が校門の近くにいた時、ガキ大将の金持ちの息子が後ろから急に私を押し出したので片足が

門から一尺(30センチ)程踏み出しました。これを見たこの級友は直ちに先生「こいがは門ば出たっです。」と申し上げました。これを聞いた先生は、前後の事情も聞かず「門な出るなと云うたろが」と云うなり私の頭を殴りました。余り口借しかったので「こいがん押し出したっです」と云ったら「門ば出たチャ出たっタイ」と云って、てんでおどんが話しは聞いてくれません。

殴った先生も押し出した級友も故人となってしまいましたが、忘れることの出来ないおどんがこまんかときの患い出の二人でした。

昔も今も、金持ちはヨカですナァ・・・。