精霊様と団子

精霊様と団子

 

今月はお盆の月ですから、お盆の話しにしました。

近頃のお盆は八月十五日に決まっていますが、おどんがこまんかときのお盆は旧暦の七月十五日に決まっていました。精霊様があの世からお帰りになる日を人間様が勝手に決めて執り行なうのですから人間様は偉いもんですなあ。

そもそもお盆とは、年に一度ご先祖様をお迎えしておまつりする行事で、特に前一ケ年の間に亡くなった新しいみ霊をお迎えするのは初精霊様といって故人をしのび親せき知人が集まって懇な供養をします。

 

精霊船の出発

精霊船の出発

 

この日は異郷に在る者も帰省してご先祖様を敬拝する、祖先崇拝の日でもあります。先ず十三日の晩精霊様がこられると云うので墓の清掃に行きます。

今頃は毎日のように墓に参りますので墓はどこの墓も驚く程きれいに清掃されていますが、おどんがこまんかときは、去年の盆に参ったばかりの墓が大部分でした。

墓清掃を済まして帰ると、母が忙しそうに迎え団子作っていました。

これは精霊様を迎える団子で、自慢のソーダ饅頭、小麦粉団子、上級品の米の粉団子と種類も多く量もびっくりする程作っていました。それは食い盛りの子供に、この時なり沢山食べさせようと子を思う親心だったのでしょうか、とにかく驚く程沢山の団子を作っていました。

今頃の人は知らないでしょうが、この頃は、ご飯でも団子でも食料を保管するのは「シヨケ」と云う竹製の容器に入れて天井からつるした鉤にぶらさげるのが普通でした。母は、沢山作ったこの団子を「ショケ」に山盛りに入れて例の通り天井につるしていました。

食い盛りのおどみや兄弟五人で、うつり代わり取って食べました。

そのたびに揺れる「ショケ」・・・この「ショケ」の揺れがやむ時がない程で、さすがの出盛りの団子もいつの間にか底が見えるようになっていました。

母は、これを見て「わっちやゆう食うにや(お前達は好く食うね)」と云って、成長さかりの子供の旺盛な食欲に、さも、満足そうであった事を今でも思い出します。

そうこうしている間に夜が来ました。「迎え火」と云って紋入りの泊提灯を縁側に下げて精霊様を迎えるのでした。

精霊様は十三日の夜遅くお着きになるそうで、それで仏壇にはお花を飾り、迎え団子、板付け菓子、西瓜、ぶどう等の果物類を供え、十二時頃になると新しい水を供えて線香ローソクをたきお迎えの礼拝をしました。

翌十四目お迎えした精霊様に三度三度の食事を取替えて賄うところもあります。夕刻になると墓参りで、初盆の墓には沢山の灯籠が点され、静かに故人をしのぶ遺族の姿は哀れでした。

こうして墓に参るのは町と大屋だけで早崎は十五日の夜だけの風習があります。

一方では、麦わら、竹、縄等を持ち寄り精霊船作りです。それぞれの技術で夕刻までには完成しました。

船名は、今も昔も西方丸と極楽丸にきまっているのも面白いです。

それはそれとしていよいよ十五日になりました。この夜は前夜同様墓参りをしてから、十二時近くになると、仏様の供物一切を精霊船に移し、多くの灯籠に火を点し、香をたき精霊様のお発ちであります。

今頃は全く違いますが、おどんがこまんかときの精霊流しは、精霊船を手漕ぎの船にのせて、港のあちこちから漕ぎ出し、港は時ならぬ賑わいでありました。そして静かに港外の本潮の流れる所まで行き、この本潮に乗せて流すのでした。

ありしあの日の思い出を、語りかけても声はなく、海の彼方に消えてゆく、かすかな精霊船の灯に、深々と頭を下げる遺族の眼には、新たな泪が流れていました。

こうした哀しい精霊流しが済むと、「盆北」と云う季節風が吹き始め、夏は終わりを告げ、秋がもうそこまで来ていました。

また団子話になりましたが、盆には十三日の迎え団子、十五日には送り団子(打立団子ともいう)それから二十日精霊様が冥土に着かれると云うので落ち付き団子と云って、僅かの間に三回の団子の日がありました。

盆は、ほかの食物も多いので、おどみゃ、始めの迎え団子の時の様に、ショケを揺らずにすみました。

考えてみると、精霊様はおどんがこまんかときの助け神(仏)様でした。