愛宕山の山から風もろた・・・
学校から帰ると、風呂敷包みの学用品をボンと投げ込んで、親から家事の手伝いを云いつけられぬうち、裏からこそっと家を出て友達四、五人集まってよく遊びました。
「陣取り」と云って路上の電柱を陣として、ジャンケンで陣に早く着くのが勝ち。
「ねん木遊び」は、直径三~四センチ、長さ五〇センチくらいの棒を鉛筆状に削り、軟らかい土の上で双方が交互に棒を投げ合って相手の棒を倒す、倒れた方が負けとなる遊び。
コマ回しは、
「イキナガショモン ショクラベ」という掛け声で一緒に回し、一番長く回った方が勝ちでした。
また、春さきになると木々の問に糸を張って陣取る「やまこぶ(コガネグモ)」を補って来て、けんかさせるのです。出来るだけ足の長いやまこぶを抽って、これを持ち寄り、一本の箸状の棒の上でけんかをさせ、ぶら下がったり逃げたりした方が負け。
こうした単調な遊びの中にもきちんとしたルールがあり、それを素直に守って遊ぶのに子供なりの面白さと楽しさがありました。
それから流行したのが、板で作った粗末なラケットでの庭球でした。口之津には明治ニ十四年頃から東方区にあった三井クラブに往来した三井の重役達が流行らせたという庭球でしたので、庭球は他村より早く根付いていました。それで、子供は子供なりにちょっとの広場を見つけ、地面にラインを引き、それなりの競技をしたものです。
じいっとしていない私達や、雀抽りもやりました。 これは、地上に一斗ジョケ(ざる)を伏せ、これを三十センチぐらいの棒で支え、この棒に紐をつけて家の中まで引き、ショケの下には雀の好む米粒やその他の穀類をおいて隠れて待ち、雀が来た時この紐を引いて雀を生け捕りにする仕掛けですが、雀の方は人間より利功なので素早く逃げる、この繰り返しで、後では雀の方がこれに全然寄りつかなくなり完全に人間の負けでした。
このほか、十字に組んだ竹骨に紙を張りつけた簡単な自作の「アゲバタ」を細々と上げる子、市販の「カンペイサン」を得意げにあげる子、それぞれが口にする
愛宕(あたご)さん山から風もろた
かーぜこいこい・・・・・
この声につられたのか、思い出したように吹くそよ風は、出揃った麦の穂波をつくり、畦道の蚕豆の葉を軽く揺すぶっています。また、収穫を終えた甘藍畑には虫食い甘藍が点々と残り、ここで羽化した紋白蝶が喜々として飛び交うさまはいまどき見られぬのどかな田園風景でした。
好奇心の強い頃のおどんがこまんかときは、遊び道具のほとんどは手作りでした。竹をもらって来ては竹トンボ、小竹で作った杉鉄砲(杉の実が弾)やジュコシ(水鉄砲)、麦わらで作った、蛍籠、カボチャに穴あけて作るブナ提灯、何でも自分で作って遊ぶのがあたりまえの時代でした。
小学校通いの履物はみんな藁草履でした。この草履は男の子は誰でも自分で作りました。この時突然、地下足袋が流行しました。この頃の地下足袋は作業用の履物でなく、靴にかわる履物でした。そこで、この地下足袋をはいて学校に通うものは、金持ちの子二~三人でした。私はやはりこの二~三人の仲問ではない貧乏人の子でした。地下足袋の上品商標に「⑤」の刻印がありました。これをはいた金持ちの子が威張ってよく見せました。これがいやでたまりませんでしたが、買ってはもらえず、やはり草履をはいた、よごれ子供の私でした。
時代は急速に進み、電灯が点くようになり、ランプのホヤミガキの子供仕事のひとつは減りましたが、電灯は一戸に一灯の時代でまだランプを使う家が沢山ありましたので、ホヤミガキが完全になくなったのは大正六、七年後たったようです。
以上の通りで男の子はよく遊びましたが、女の子はどうしていたのでしょうか?
梅雨の頃になるとよく庭先に、赤い「つぼね(ほうせんか)」の花が咲きます。この花びらを集めて、これを石ころで搗いて赤い汁を出し、それで爪を染めていました。今のマニキュアです。
それに「ふうづき(ほうづき)」は植物のほうづきと、海ふうづきと云って、貝の卵に穴を開け、これを口に入れ舌でおさえて、ギュウーギュウー鳴らしていました。
爪を赤く染めるのは分かりますが、ホウヅキを目の中でギュツーーギュウー鳴らすのは今もって分かりません。
「ひょっとしたら、娃(どんく)が仲問かとおもやせんじやったろかい」