口之津検疫所(東大泊区)
文 白石正秀
口之津検疫所検疫所は、伝染病の病原体を待ち込まれるのを肪ぐため、港や空港などで旅客や貨物の検査をし、必要に応じて隔離・消毒を行うことを業務とする役所であります。
貿易港である口之津には、明治ニ十八年四月、瀬高観音様の横にあった交親館内に設置されました。開設当時の所長は、十八代の警察署長・草刈源四郎という人が兼任し、通訳や医官も配置され、業務を執っていました。
輸出炭が増加するにつれて入港船舶も増加した口之津港は、博多港や唐津港と共に輸出入貿易に指定されました。
これに伴い、明治三十二年四月内務省直轄の長崎県海港検疫所口之津支所と改称され、庁舎を公園下(現シーサイドグラウンド)の所に新築移転し、警察署長の兼任を解き、専任所長が執務するようになりました。専属船『つばき丸』も配置され、いよいよ多忙をきわめる検疫所となりました。
検疫所の遠望 明治四十三年九月より、外国諸港及び台湾から三池港に入港する船舶もすべて口之津で一時停船して検疫することとなり、大正二年には住之江入港の船舶も同様口之津検疫となりました。こうしたことで大正五年の実績は、受検船舶三四二隻(内、口之津入港船舶七九隻)、受検人員一九、二二六人の多きに上り、有明海咽喉部にある検疫所だけに、年とともに実績を上げていきました。
ところが大正十二年、三池築港が完成してからは、口之津入港船舶は皆無といえるほどまで激減し、それに比べ三池入港船舶の急増は驚くほどでした。そこで三池に入港する船舶は口之津での検疫の不便を訴えるようになり、遂に三池検疫所の開設となったのであります。こうなると口之津検疫所は無用の長物となり、大正十五年三月に閉鎖されてしまいました。
港口に税関あり、検疫所あり、高台に灯台あり。口之津は威厳と風格を備えた港町でありましたが、閉鎖された検疫所は程なく取り壊され、歯の抜けるようにその姿を消してしまいました。
話は変わりますが、大正時代の小学校の運動会には、大きな旗竿から万国旗を四方に張りめぐらして運動場を飾っていました。今頃のように小旗はない時代ですから、これに用いる旗はすべて検疫所の旗を借りて使っていました。それで先生に連れられ、歩いて大屋から東大泊まで借りに行ったことを覚えていす。たぶん小学五、六年の頃と思います。いま考えてみると、検疫所の旗は実に堂々として運動会の雰囲気を盛り上げるには十分なものがありました。また、当時の運動会は、今の時代と連って一家族に必ず二、三人は子供がいたので、たちまち家族総出の運動会となり、それは賑ったものでした。
数々の実績と様々な思い出のある検疫所跡は、いま装いも新たにシーサイドグラウンドとして甦り、子供達の遊び場として、また家族づれのよき憩いの場として脚光を浴びています。
それまでは、当時をしのぶ壊れた石垣が港外から寄せくる波と昔を語っていましたが、移り行く時の流れに世はかわり、町が取り祖んだ港口護岸工事、これに附帯する海岸周遊道路工事も着々と進捗し、資料館からシーサイドまで車の走る目がすぐそこまで来ています。
昔の税関と共に歩いた検疫所が握手して、華やかだった背の港を語り合う目がすぐそこまで・・・