南蛮船の来た港
文 白石正秀
公園の新緑に映える真紅の『なんばん大橋』は、口之津を象徴する名所として多くの人に知られています。
『なんばん』とは、その昔、口之津に来航して南蛮貿易を始めた南蛮船になぞらえた名称で、実にうがった命名だといえましょう。
さて、その南蛮船とは、ポルトガル船とスペイン船をいいますが、スペイン船の来航は極めて短期間であったので、南蛮船といえば専らポルトガル船を言うようになりました。
ところで、このポルトガルという国は、海外進出を始めた500年前の頃は人口わずか120万人の小国でありながら、世界の海に乗り出して、あの大航海時代をつくった実に素晴らしい国であります。また、海の向こうの未知なる土地に富を探す情熱に加えて、精悍な闘争心と冒険心を持つ国でもありました。
この国の船が大洋を越えて、はるばる我が国の平戸に入港したのは、天文19年(1550)でありました。これを迎えた平戸の領主松浦隆信は、転がり込んだ利益で大歓喜でしたが、この裏にはキリスト教布教の責務が大きく負わされていました。
入港が盛んになるにつれ、来朝した宣教師の布教も盛んに行われましたので、平戸の仏教徒の反発が強くなり、従って領主の態度が次第にあいまいになりました。これに業を煮やしたイエズス会(耶蘇会)は他港を求めるようになりました。
この間、いろいろ複雑な問題が起こりましたがここでは省暗します。
とにかく、イエズス会は平戸入港をいやがり、隣藩の大村落に港を求め、横瀬浦港を開港しました。しかし、これも反乱のため焼討ちに遭い福田港に移りましたが、これも僅かの間でやめになりました。
その当時の口之津港は、今の大屋新開も開田新開も、また貝瀬新田もなく山の際まで港だったので、現在の三倍近くの広さがありました。深さも七尋(約十五メートル)もあったと言いますから、実に立派な天然の良港でした。
しかも三方が山に囲まれた風当たりの少ない港-。寄港地マカオから東シナ海を直行するには最短距離にあり、堺・博多・豊後など日本各地の商人が集まりやすい港でした。
特に、すでにキリシタンの布教がなされている町であることは、彼らにとって絶好の条件を備えた港町でありました。
こうしたことで、大きな期待をもって一時に三隻の巨船が入港したのですから、有馬領土の喜びは大変なものでした。
そもそも南蛮船には二つの型があります。
その一つは『ナウ型』こといって、吃水の浅い季節風相手に走る大型の帆船で、いま一つは『ガレオン型』といって、砲門を備え漕ぎ手の力で走る少し小型の戦闘型の船です。
口之津に入港した第一回船は、前者の『ナウ型』でした。
南蛮船でよく質問を受けるのは、唐入町にある『南蛮船来航の地』、あそこに南蛮船が来かのかということです。
南蛮船は今申しましたとおり、帆船で六〇〇トンもある船で、長さ七十二メートル、幅ニ十ハメートルもあります。
それに乗組員をはじめ便乗した宣教師、貿易商人などを合わせて二五〇人余が乗船。満載した貿易の商品で、船は水深のある港の中央にしか停船できませんでした。
それで、唐人町のあの地は、小船を使って人の乗降、商品の積みおろしをする『今の桟橋』の役をしていたと考えられます。
こう考えると唐人町は宣教師の上陸地であり、貿易商人の群がる国際街であったに違いありません。
記録によれば、南蛮船が来なくなってからも支那(中国)船が往々漂着するので、通訳を置き、『他所に雑居を許さず』と決めて唐人町を居留地に指定していました。
これを廃止しだのが享保四年(一七一九年)ですから、ずいぶん長期間の国際街であったといえます。
現在のように干陸化して開田新開となったのは、文久二年(一八六二年)のことでした。
今日、この新開が面目を一新し大きく変わろうとして、期待されています。
~ 二回目の入港-
華々しい第一回目の入港から二回目の入港は、九年目の大正四年(一五七六)六月二十二日でありました。
口之津に来なかった八年問の前期三年は大村領の福出港と天草の志岐、後期の五年間はもっぱら長崎港に入港しました。
待ちにまった二回目の入港船はジャンク船であったので、領土有馬義直の期待は大きくはずれました。
~ 三回目の入港-
三回目の入港は大正七年(一五七九)七月二十五日で、この船は一回目同様ナウ型の大型船でありました。
しかも、この船から上陸した一人の聖者は、アレシャン
ドーロ・ヴァリニャーノというイタリア人で、彼の職名は東インド巡察師という重要職であります。
このヴァリニャーノは四十歳の働き盛りの最も円熟した年齢で、口之津の玉峰寺付近にあったという教会で全国宣教師大会を開き、布教方針や学制計画などを決議。また、大正十年には遣欧使節を派遣しました。
この使節が帰国する時に日本最初の活字印刷機を持ち帰り、加津佐コレジョ(キリシタンの大学)に設置して、日本最初の活字本が出版されたのは有名な話であります。
こうした重職をもつ宣教師の往来する口之津は、キリシタン布教の根拠地となって栄えていました。
-四回目の入港-
三回目の入港の翌年、天正八年(一五八〇)にジャンク船の入港がありました。
口之津入港が何となく振るわなくなったのは、大村領の長崎入港が盛んになったからであります。
-五回目の入港―
天正十年(一五八三)、ジャンク船一隻が入港しました。
この船はマカオを二隻同時に出発したのでありますが、途中三回も台風に遭い一隻が遭難。口之津に入港した船は三十日余りかかって、辛うじて八月十二日に到着しました。その船も荷物を海中へ投棄して、命からがらの入港であったといいます。
これで口之津入港は終わりですが、巡察師ほどの大物をのせた三回目の口之津入港を見た大村領主大村純忠は、すくなからぬ不安と焦りを感じていました。
そこで大村領主大村純忠は、自領の長崎と茂木をイエズス会に寄進することをヴァリニャーノに申し出ました。これは、長崎に貿易船を安定して入港させ利益を独占しようとしたのと、常に脅かされていた佐賀の竜造寺隆信の侵攻をかわす避難の地にするためだったといわれています。
一方ヴァリニャーノは、極めて有利な条件を提示されたので、早速これを受け入れることにしました。このため、長崎以外の港には貿易船の入港が絶望的となり、口之津に入港した南蛮船は十五年間に五回、七隻で終わることになります。
しかし、口之津は、最終船の入った天正十年(一五八三)から、有馬領主十四代の有馬晴信が岡本大八事件によって甲斐の山奥で死を賜り四十ハ歳の波乱にとんだ生涯を終えた慶長十七年(一六一二)までの三十年間、西日本におけるキリシタン布教の根拠地となったのであります。
これからはキリシタンの話に移りますから、南蛮船の話はこれで終わることにします。
『南蛮大橋』にちなんで南蛮船の話を書きましたが、かた苦しくて面白くなかったかと思いますので、次頁からは趣をかえて、どこの区にも必ずある名所や旧跡の話を始めたいと思います。
資料館のある東大泊区から始め、早崎回りで、解りやすいように心がけて書くことにしましたのでご期待ください。
参考・:島原半島とキリシタン物語 中村信夫著