真乗寺
文 白石正秀
阿弥陀佛を本尊とする、浄土真宗、本願寺西派の通津山真乗寺は今を去る三四七年前の慶安四年(一六五一)、肥後国飽田郡熊本(現、熊本市細工町)の西光寺から末寺として、口之津村大屋名小字榎田に芳沢超山師が創建したものです。
その後の藩主、松平主殿頭忠房公の寄進地に、縦ニ十九間半、横ニ十一間半(六三四坪)の境内に茅葺(かやぶき)本堂四九坪を建立し、宝暦元年(一七五一)鐘楼四坪を建立しました。
時は流れて明治ニ十八年(一八九五)六月三日の大暴風雨により、本堂はもとより庫裡に至るまで人被害を受けました。
この復旧工事を小利の成末常松と云う人が六十五円で請負い、七月中旬から工事にかかりました。そのため御本尊の如来様は順風丸(長ハ方)に預け、庫裡修理の時は寺一家は酢屋太田乙蔵方へ仮住居したと云う記録が残っています。
請負費六十五円の内訳は分かりませんが、もし本堂・庫裡の総括請負金だとしたら、当時の金の力の偉大さに驚きます。
その後、第十世観嶺師が本堂を瓦葺きとして七十二坪に拡張しました。
これも、年と共に老朽化し何回となく増改築を繰り返しましたが、昭和六十年の台風に甚大な被害を受けたので太改修を余儀なくされたのです。そのおかげで平成三年に猛威をふるった台風に十九号の時は大した被害もなく、今日に至っています。
なお、鐘楼は宝暦元年(一七五一)建設のものを、天保十四年(一八四三)に瓦葺きとし、更に明治十三年(一ハハ〇)に再建して現在に至っています。
この鐘楼は建築構造に特色があるとして有名であります。
この寺には本堂正面の阿弥陀様の左脇立として信楽院顕如上人と信入院文如上人の御連座の御影絵が掲げてあります。
これは文化八年(一ハーー)月日不詳、本山から諸国巡敦の御使憎が天草から当地へ御渡海の途上遭難された時、七世の芳沢就静住職と門徒が身を挺して御使憎を無事救出したため、その賞として、二人の中興聖人の御連座絵を文化九年五月三日に御下附になったと云う貴重な宝物であります。
また、当時の本堂に向かって左側にある碑は、当時の郵便脚夫(集配人)早崎の田口亀吉、田口歳太郎氏が郵便物を天草の御領村に送り届ける途中、瀬詰で暴風雨のため遭難し、明治十六年一月十八日、天草志柿の海岸に溺死体となって漂着するという事件がありました。この時二人は死ぬまで郵便物をはなさず護った、その功績を称えて建立されたものであります。
この碑は京都府郵便局集配人、小塚信遣外数名と当郡郵便物取扱役人、および口之津村永野康衛、南藤栄門の世話によって建立されたもので、同僚、上司の仲間意識に徹した美挙と云えましょう。
その隣りにある石像は、大正十二年九月一日の関東大震災で家族六人をなくした永田利行氏が追善供養のため建立したものです。当初は金属の観音像でしたが、戦時中の金属回収に率先応召され、その後、昭和十九年四月に現在の親鸞聖人の石像が建立されました。
また、庭の太蘇鉄は、三百余年の昔、琉球から取り寄せたものと云われるもので、当村久木山の加島弥太郎氏の先祖が寄贈されたと伝えられています。
こうした色々な云い伝えのある中でも、今から約三百年程の昔、鹿児島で仏教、特に真宗の弾圧が行われた念仏禁制の頃、彼の地の仏教信者と思われる人が、高さ三十七糎の仏像を背負って来て、この寺に預けたと云う話は圧巻です。三百年を経た今日、誰一人として尋ねる人もないまま、寺では新築された納骨堂に安置して香華灯燭の絶えることなく懇ろに祀ってあります。
しかも、新装なった位牌堂に相応しく美しいお姿に替わり、多くの謎を秘めたまま何にも語らず移りゆく世の相をじいっと見守っていられます。
島原の乱が過ぎてから十四年。肥後西光寺の末寺として芳沢超山師創立以来三百四十七年。現住職、芳沢天剛師まで十四代を数え、門徒と共にある師は、その信望も厚く寺運ますます隆昌を辿っていることは慶賀にたえないところであります。
○追 記
芳沢大剛師、平成十一年五月九日還浄により芳沢十方師これを継承して第十五世となりました。
参考・:真乗寺古文書
口之津の社寺(高橋忠義著)