からゆきさん

からゆきさんを乗せた青煙突のバッタンフル
からゆきさんを乗せた青煙突のバッタンフル

からゆきさん

文 白石正秀

からゆきさんを乗せた青煙突のバッタンフル

からゆきさんを乗せた青煙突のバッタンフル明治政府が、富国強兵、殖産興業、文明開化を三人支柱としてのり出し、国家財政の基礎を固める必要から、徹底した緊縮財政をとったため、農村は一変して不況に見舞われ、男も女も、資本主義社会の底部に組み込まれて行きました。

もともと、農民は江戸時代から貧しい生活を強いられていたので、日本の社会は、農民の犠牲を当然のことに考えーー生活に困窮した我が娘を売る、娘が身を売って家を助ける……この一家の悲惨事も、家削度のもとに起こる軽い出来事として、あしらわれる哀しい時代となっていました。

このような時代に、海外渡航が解禁となり、口之津その他、数多くの貿易港から、南洋方面(東南アジア)に売られてゆく多くの女達がいました。これを「からゆきさん」と呼ぶようになりました。

世の中には、すばしっこい者がいるもので、すかさず、この「からゆきさん」を周旋する専門業者が現れました。これを口入業と云い、所によっては桂庵、又は嬪夫とも云いました。ご存じの時代劇によく出る女衒(ぜげん)も、この種のものです。

国際的にも名を知られた女衒の元締、村岡伊平治は、全国的な誘拐組織を作り、口達者な婆さん等を末端に使い、田舎から村娘を誘拐して売り飛ばしていました。

この人の自伝によれば、明治22年~27年の間に、シンガポールに上陸した女は、長崎(785)口之津(307)神戸(503)門司(476)横浜(301)清水(207)唐津(70)三池(20)その他(19)で、合計2、688人を出したと書いています。このように、貿易港からはどこからでも「からゆきさん」は出ています。

ところが、「からゆきさん」と云えば、口之津がその代名詞の様になっているのは何故でしょう?

口之津港外では、石炭を満載した青煙突のバッタンフル(英国船)が、じいっと日没を待っていました。やがて宵暗が港をつつみ、街に灯が点き始めた頃、突如として山手に火の手が上がった。火事です。

街が騒然となったこの時、小さな渡船(サンパン)が監視の眼をくぐって、おびえきった村娘数人をのせ、むしろをかぶせて本船向けて漕いで行きます。これが女衒の人運びの常套手段で、街では山手に火事のある時は必ず「からゆきさん」の出る晩と噂して「今夜も『日光行き』があったバイ」と云っていました。「日光」は「密航」を意味していたのでしょう。

船底につれこまれた村娘たちは、暗がりにだんだん眼が馴れると、先に連れ込まれたらしい娘達十数人が、石炭の上で震えているのが分かりました。後の数人がこれに加わったので、荷(女)が揃ったと思ったのか、今まで優しかった女衒の態度は一変しました。荒々しい言葉遣い、娘達を荷物同様に扱いました。そして、本性を現わし、狼の様に襲いかかりました。まさかと思っていた事が現実であった驚きに、逃げようにも船底の暗闇ではどうすることも出来ず、女衒のすきを見て石炭をかき拡げ、出来た穴に体を横たえ、手の届くだけの石炭をかき寄せてかぶせたが全身を隠すことは出来ないまま、じいっと身をひそめていました。また、二、三人の娘は、うす明るい光のさす機関室に逃げ込みました。

錨を上げた船は汽笛も鳴らさず逃げる様に静かに出港し、程なく瀬詰の急流にかかりました。

すると、大きなローリングが始まり、そのため起こる石炭の荷動きは荷崩れの状態となり、身をひそめていた娘達何人かの命を奪いました。機関室に逃れた娘連はエンジンの始動で巻き込まれて命を落とすものもいました。こうした出港直後に起こった闇の中の事件は、闇から闇へ葬られたと云います。

生きのびた娘達は、歯のこぼれる横なコッペパンを一日二~三個与えられ、用便もたれっ放し。

こんな日が二十九日も続いて、船はシンガポールに着きました。

乗る時も闇の中でしたが、降りる時もやはり闇の中で、目本人の経常する宿屋につれこまれ、

ここで各地の娼楼に売り飛ばされたのであります。彼女達の肩にのしかかる前借金は、上玉(よかおなご)五百円、下玉(おかしかおなご)三百円で、この金は親元へ送られるのでなく、すべて女衒の懐に入るのでありました……。

娼楼に移って、身を引きさかれる思いで働く彼女らは、着物の一枚、化粧品の一つにも楼主の息がかかり、すべてが前借金に繰り入れられ、一生這い上がられぬ沼底に落ちてゆきました。

幻の僥倖にすがったあの夢、この夢もむなしく消え、頬伝う泪のあけくれに、はかなく異郷の空に朽ち果てた、哀しい運命の「からゆきさん」でした。

参考・・・村岡伊平治自伝

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