口之津灯台

口之津灯台に初めて使ったレンズ
口之津灯台に初めて使ったレンズ

口之津灯台(東大泊区)

文 白石正秀

口之津灯台、明治13年頃
口之津灯台、明治13年頃

日本の灯台の始まりは、承和(じょうわ)六年(八三九)遣唐使が大陸から帰ってくるのに便利なように、九州の太宰府海岸で昼は「のろし」をあげ、夜は「かがり火」をたいて船の目印にしたのが、記録に残る最初の灯合といわれています。

その後江戸時代になってから、全国各地で石の小塔に木造の燈龍をともす「灯明台」が造られました。

現在の洋式灯台は、江戸時代の末期、和親通商条約によってフランスの技師を雇い建設したといいます。その第一号が神奈川県観音崎灯台で、明治二年一月一日初点灯し日本最初の灯台となりました。

ところで、口之津は三池石炭輸出港として出入りする船舶が急増したので、これらの航行安全のため港口の高台(土平)に建設されたのが、口之津灯台です。

初点灯は明治十三年五月十日で、長崎県で三番目、全国で四十三番目の灯台といわれています。

この建設については、これまで外国技術を受け継いだ日本人技師が最初の頃建設しかもので、当時はまだコンクリートの普及していなかった頃で、すべて煉瓦積みとし、その上を白く塗装した、高さ六・六メートルのハウス型の建物で、当時としては大変めずらしい建物でした。いまも昔ながらの灯台として百余年の雨雪に耐えて、じいっと有明海を見守っています。

例によって、この灯台の住設費、その他を調べてみますと、建築費千二百九十六円十五銭七厘、灯明代四百六十一円五十四銭五厘、合計千七百五十七円七十銭二厘で口之津灯台が出来たことになります。貨幣価値のまったく違う今目と比較することは無理・ですが、今の清酒一本で灯台が出来たことになりますのも面白い話です。

事務所は灯台と同時に建築された立派な建物でしたが、昭和四十八年三月解体されて、今はその姿は見られなくなりました。

口之津の一般民家に電灯が灯くようになったのは大正二年でしたが、灯台用の電気が導入され石油ランプから電気の灯台に変わったのは大正七年でありまた。近代化した人きな電球に直径四十センチもあるイギリス製の大きなレンズで放たれる明るさは一万一千カンデラ。光達距離は三万二千四百メートルといいますから、口之津鬼池聞の約五・四倍先まで光が届くということになります。(このレンズは口之津灯台提供で有料館に展示してあります。)

口之津灯台に初めて使ったレンズ
口之津灯台に初めて使ったレンズ

機構が変わり、昭和ニ十八年、口之津灯台と言っていたのを口之津航路標識事務所と改称され、その管轄区域も広くなり、千々石灘から本渡海域・有明海に面する二十四の航路標識の管理に当たり航行する船舶の安全を守る所長さんほか所員のご苦労は大変なものと思われます。

今日もまた、水気をついて東大泊の船溜りから保安斤の旗をなびかせながら、灯台見廻船が有明海の海へ出て行きます。