口之津銀行(栄町区)
文 白石正秀
明治中期、農村不況のかげりの中でも口之津は、四十年には年間輸出炭九十二万トンと云う最高記録を出した程で、他所の不況は「何処吹く風か」と云う勢いの景気だったと云います。
かねてこれに着目していた島原に本店を置く島原貯金銀行は、明治三十一年四月には早速口之津に支店を開設して営業を始めましたが、この銀行はこの地方の人が余り馴染まないうち、明治三十七年には取付けに遭い解散してしまいました。そのため口之津にもかなりの被害者がいたと云うことですが定かではありません。
その後も金融機関の必要性から三十九年に口之津貸金合資会社が設立されました。この会社はその名の如く、専ら貸金を業とする会社で、株主九人が出資した六万二千円の原資を貸付け、その利息収入を目的とした会社でしたが、これも短期間で解散してしまいました。
こうした事が続いたため地元に銀行設立の声がおこり、四十年七月七日、南彦七郎、永野仲裁氏等十三名の発起により、口之津銀行設立申請書を知事に提出、程なく大蔵大臣の許可を得ましたので、当時、口之津経済界の双壁といわれた南彦七郎、植木平三郎の両氏は早速同志と諮り、資本金五十万円(内払込済額、十二万五千円)をもって七月二十三日には創立総会を開催するまでに取り進め、頭取・南彦七郎、専務取締役・植水平三郎、取締役・永野仲蔵外四名、監査役・本多貫一外二名の陣容で開店し営業を始めました。
その後、大正三年七月に有馬支店、翌八月には加津佐支店をそれぞれ開店して業務拡張につとめましたが、折からの第一次世界大戦の勃発により、再び経済界の変動があり業務の伸びは低迷して、支店増設の効果はさして見られなかったと云います。
ところが大正五年十二月、大戦終息により、欧州向けの復興資材の運送など海運界は俄に活況を呈し、大正六、七年の頃は海運ブームがその頂点に速しました。
海と云えば直接関わりのある口之津にもブームの曙光が見えてきました。
直ちに口之津銀行は預金が急増して貸出金が追いつかず、しばしば遊資金を抱える時があったと云います。
こうして続く好況と堅実な経営によって逐年業績を上げ、大正七年十月には南串山にも支店を開設しました。
折からの産業界は企業体の合同が推進される時代となり、これに対応して大蔵省は銀行の規模拡大をめずして大正七年五月、その旨は地方長官に通達するところとなり、これを契機に金融界も俄に合同の気運が高まりました。
もともと口之津銀行は十八銀行を親銀行として、借入金を依存したり、遊資金を預入したりして蜜接な関係にありました。その上明治四十二年七月以降、長崎本金庫(十八銀行)口之津派出所となり、国庫金(政府の金)を取り扱うようになり、これと共に口之津入港の外国船が納める噸税収入も口之津銀行扱いとなっていたので十八銀行との関係は常に親子の関係にありました。こんなことで合併問題は極めて順調に取り進み、大正八年十ー月一目を期して合併し、口之津銀行は解散して十八銀行口之津支店(初代支店長・植木信一氏)として新たに発足しました。
これと同時に有馬、加津佐、串山の店舗はそれぞれ十ハ銀行の出張所となりました。
合併を終えた十八銀行は現在地に当時としては実に偉容を誇る立派な店舗を新築しました。
(大正12年)私共が子供の頃は立派な建物を見ると「銀行んごたる」と云ったもんでしたが、解体されて今はもうその姿はありません。
こうした歴史をもつ十八銀行が、目まぐるしく変転する経済界の中にあって、限りないご発展を祈ってやみません。