瀬高観音(東大泊区)
文 白石正秀
十一面観世音を本尊とする瀬高観音は、霊松山・潮音院ともいい、島原潜圭の寄進した一町三反三畝九歩の地(現口之津公園の地)に、寛永十九年(一六四二)八月、玉峰寺開基・松巌良栄和尚によって十四坪の堂宇(どうう)が建設されました。
時の天草令尹(れいいん)(今の地方長官にあたる)として知られ、一時期代官として島原に臨んだことの鈴木三郎九郎は島原の乱後キリスト教根絶のため、諸所に禅教寺を造らせました。
玉峰寺も、この観音堂の建立も、このためであります。
その頃、この観音堂には金比羅宮を合祀(ごうし)してありましたが、慶応四年神仏分離令の公布となり、神仏混淆(こんごう)が禁止され、堂宇も取り除かれることになりました。そこでやむを得ず金比羅宮を仮宮に移し、観音像は玉峰寺に移されました。時の住職は十八世万峰一無和尚で、今は亡き金木登先生の先祖でありました。
明治九年になって、本多次郎(庄屋元)の所有地に堂宇を新築し、そこに観音像を安置しました。それは、現在新築されている観音様の庫裡(くり)の敷地でありました。時の玉縁寺住職はニ十世南育仙でした。
その後明治二十二年に至って、町名の信者の寄進によって現在の堂が新築され、今日まで畿たびか改修が加えられ百六年を経ています。
さて、この本尊十一面観世音は、一尺六分(三十四センチ)の座像で、行基菩薩の作として有名であります。これには次のような面白い伝説があります。
大昔、百済(くだら)の国の万竜山、山頂にあった大木が、洪水によって海中に流出し大海を漂流するうち、遂に肥後の国(熊本県)宇土郡の海辺に漂着しました。
村人達はいいものが流れ着いたと、これで橋を造りました。ところが、この橋は不思議なことに、夜になると鳴動して異様な光を放ち、この光の中に異形な影が現れ、これをじっと見るとすぐに消え去り、たまたま往来の火がよく見ようとすると忽ち失神するなど、人々は恐れおののいて、この橋を殺生橋と言うようになりました。
その頃、諸国を巡歴していた行基菩薩は、この話を聞き、おびえ込む村人達を憐れみ、発願して橋に向かい、『それ橋は人を渡し世人を肋くべきに、却って人を悩ますとはこれ如何に。敢えて吾いま諸人を救わんがため、三断してこの橋本の流れ寄する所に観音の尊像を刻みあげて諸人を正道に導かんと欲す』と念じ、錫杖(しゅくじょう)(修行憎の杖)をもってこれを叩くと、不忠議にも橋は三つに折れ海中に流れ去りました。
その後、行基菩薩は流れついた地において観音像を刻み安置しました。即ち、岬の観音(野母)、茂本の観音、瀬高の観音がそれであります。
また、昔から暴風雨に遭い、大海で方向を失った時は、誠心をもって観音力を念ずれば、直ちに山を現し火を見せ給うといわれ、「火見せの観音」ともいわれる霊験あらたかな観音様で有名であります。