野田堤
文 白石正秀
狭いことを猫の額の様だと言いますが、島原半島で一番狭い口之津の面積はそれこそ猫のうちでも痩せ猫の額ぐらいのもので、それはそれは今も昔も変わらぬ狭い町であります。
従って大きな川も広い田畑も少ない所なので、大昔から農業用水のすべては溜池(この地方では堤(つつみ)という)の水にたよっていました。
古い記録には、今から一三八年前の安政五年に溜池一七一カ所、一〇四年前の明治ニ十五年に三四〇ヵ所、昭和十年には三五五ヵ所の溜池があったことが記されています。
その溜池の一つ、標高七十メートルの高地にある野田堤は、数ある溜池のうち六千坪(二ha)もある一番大きな池であります。
この池によって多くの田畑と人家は水利をもたらされていたのですが、そもそもこの高台にどうしてこんな大きな池が出来たのでしょう?
その昔(年代は諸説があってはっきりしません)、早崎に野田新左衛門という知恵のある農民がいました。この人はちょっと変わった能力の持ち主で、常に自然を相手に物事を考える人でした。
新緑五月のある日、蜂火山(のろしやま)に登った彼は心密かに「この地に池を」と大きな夢を描いていました。
山上に池が出来るだろうか。無理、いや出来る、彼は悶々の一夜を明かしました。夜が明けると直ちに、また、山に登りました。今日も眼下に見る瀬詰の瀬戸は早川のような潮流でした。これを眺めていた彼の胸中には、やはり、この地に池を造る構想が次から次へと早川のように浮かぶのでした。こうした構想を設計に移し、歩幅や間縄による実測もほぼ完了したので、早速区民に発表して協力を呼びかけてみました。
ところが、区民は誰一人の賛成者もなく 「山のてっぺんには水は溜らん」と言って、罵声を浴びせました。彼は覚悟をしていたもののひどい嘲笑に、じっと眼を閉じて耐えていました。
しかし、俺の計画は嘲笑される程の愚ではない。水は必ず溜る。水が溜れば、それは池だ・・・と自分の信念を決して曲げようとはしませんでした。
それから翌々年の夏、この地方は大旱ばつに見舞われ、農作物は枯れ果て飲料水も尽きる大飢饉となりましたので、村を挙げての雨乞祈願が行われました。雨乞の神様往古神社には毎日人がこもり、蜂火山にも雨乞する人が溢れるようになり、新左衛門も先頭に立って伝来の雨乞行事を続けていました。
こうした誠が通じたのか、一天俄にかき曇り七十日ぶりに雨が降り出しました。待ちあぐんだ雨とあって、農民は歓喜しました。
その時、新左衛門は今ぞとばかり、人の見守るなか皿を頭にのせて歩き出しました。人々が呆気にとられて見るうちに、降りしきる雨は皿から溢れ出ました。
この時、彼は大声をあげ-「これ見ろ、頭のてっぺんにも水は溜るのだ。この山にも水はたまる。必ず池が出来るのだ!」と叫びました。
皿からこぼれ落ちる雨水が頬を伝って流れる新左衛門の姿は悲壮にさ見え、また、その声は信念に燃える魂の雄叫びでもありました。
この姿を見た農民達は、いつのまにか新左衛門を中心に円状の人垣を作っていました。そして、誰言うもなく、「水は溜る」「そうだ!ここに池は出来る」と叫びました。そして一同は嘲笑ったことを詫び、新左衛門は今後の協力を頼み、互いに手を握り肩を寄せ合って泪していました。
それからまもなく区民総出の工事が始まり、希望の鍬が打ちおろされ、希望の上が運ばれて三年。見事な池が完成しました。山の上に、しかも口之津一の大池が……。
この他の構築に着目し、これを完成した野田新左衛門の功績を称え、その名を長く残すため、野川堤(池)と命名されたといいます。